『傷痕』 後編
「…何か言ったか。」
「俺を…抱けって言ったん…だよ。…孝浩の代わりに……。」
驚いて振り返ると、瞳を真っ赤に潤ませた弘樹がまっすぐに俺を睨み付けてきていた。
「弘樹…。」
酔っ払いの戯言だと誤魔化すには真剣過ぎる眼差しに、俺は言葉を失う。
弘樹がずっと誰の事を好きなのかは分かっていた。
気付かないふりをしてきたのは、弘樹自身が自分の思いを隠し通せていると信じているようだったから。
俺が孝浩に出会うよりずっと早くから、弘樹の気持ちに気付きながらも、応えてはやれない自分の愚かさ。
俺は決して報われないと知りつつ孝浩を求め続け、弘樹はそれを十分に知りながらいつまでも俺を待ち続けているのだ。
「…そうだ、目隠しすればいいじゃん。…お前の好きな、孝浩…想像させてやるよ。」
強気な口調とはちぐはぐに、俺のシャツを掴んだ弘樹の指先は細かく震えていて、ぎゅっと握りしめた指は白く血の気を無くす程に強ばっている。
「孝浩を汚せないと思って告白出来ないのなら、代わりになってやるから…俺が…。」
孝浩の代わりは誰にも出来ないように、弘樹、お前の代わりも他の誰にも出来はしないのに。
拒絶も抵抗もしない俺の様子を肯定ととったのか、弘樹は黙って部屋の照明を落とし、俺の目を布で塞いだ。
暗闇の中、弘樹の手が俺のネクタイを解き、ゆっくりとシャツの中へと伸ばされる。
人形の様に手足を投げ出し、されるがままの俺を震えながらも慈しみ、そっと触れてくる弘樹の愛撫はぎこちなくて、切なくて何だか泣きそうになった。
首筋を辿る柔らかな唇の感触。
シャツの袖から腕を引き抜かれ、脱いだシャツの衣擦れの音が床に落ちる。
「秋彦……。」
暗闇の中、弘樹の掠れた声が切な気に俺の名を繰り返し呼ぶ。
晒された素肌に、おずおずと触れてくる手のひらがとても熱くて、彼の真剣さを教えてくれていた。
手触りで弘樹の頬にそっと触れると、彼がビクンと身をすくめる。
頬から耳、そして髪の毛を指で鋤くとため息みたいな甘い声が漏れた。
こんなにずっと近くに居たのに知らなかった、弘樹の感じやすい躰。
孝浩とつるむ事が増えたり、執筆業が忙しくなってからは、同じ大学に通っていても部も専攻も違う弘樹と行動を共にする事が減って、彼の交友関係を全て把握してはいないが、俺の知る限りこれまで弘樹が誰かと長く付き合った話は聞いた事が無い。
大学生らしい男女交際にもコンパにも興味無く、たいてい一人でいる事を好む弘樹。そう、俺以外の誰も見えていないかの様に。
なのに今、俺のベルトの前を開き、震える唇を寄せる彼は姿が見えなくても十分に扇情的で、俺の中に乱暴な感情を呼び覚まさせる。
下着を押し下げ引き出した俺の性器を躊躇う事なく口に含み、舌を絡められた。
苦しそうに息を継ぎ、懸命に俺を高めようとしている弘樹の髪を少しきつく掴むと、唇の端から微かな喘ぎが漏れる。
十数年、気の長い片思いを続けて来た奥手のこいつの体を、いったい誰がこんなに淫らにしてしまったんだろう。付き合った者でなければ、行きずりの男か。
無防備な胸元に手を伸ばして、小さくしこった粒に爪を立ててやると、体が大きく揺れ、感じるのか喉の奥で切なく啼いた。
俺の知らない所で、俺を思いながら違う男に身を任せたのか。
孝浩の身代わりに、と言いながら、俺の代わりに何人の男に抱かれてきたんだ。
勃ちあがり、口いっぱいになった屹立をピチャピチャと音を立てて舐める弘樹の髪を掴んで、わざと喉の奥を突く。
「…ぐ…っんん……。」
それでも唇を外す事なく耐えようとするその姿に胸が締め付けられるのを感じた。
どうしてお前は俺なんかの為に、そこまでするんだ。
他の奴の身代わりに、プライドも体も何もかも投げ出して。
「…秋彦…ごめん、ちょっとこのまま…待って。」
熱く高ぶったそれを途中で放り出されて、戸惑っていると、がさがさという物音がした後、俺の膝の上に、弘樹の裸の腿が触れた。
どうやら下を全部脱いで来たらしい。
まだ硬く勃ったままのそれに、滑らかな弘樹の肌が押し付けられる。
おそらく、俺を受け入れようと自らの指で慣らそうとしているのだろう、はぁはぁという吐息に混じって、小さく濡れた音が聞こえた。
俺はふと手を伸ばし、腰に跨がった弘樹の股間に指を絡める。彼の様子から当然熱くなっているのだろうと予想していたそれはまだ柔らかいままで、弘樹が俺にばかり必死で自分の快楽を置き去りにしていたのだと知らされる。
「あっ…や…あき…秋彦っ…。」
絡めた指を上下に揺すってやると、膝の上の弘樹が激しく揺れた。
「あ…っ……ああ…っ。」
徐々に勃ち上がっていくそれをきつく擦りあげながら、俺のものと一緒に握ると、耳元で甘い吐息が零れた。
先端から溢れるぬめりを塗り拡げてやると、艶かしく腰が揺れる。
「挿れていい…?……もう。」
俺の高ぶりに指先を添えると、弘樹は腰を浮かせて自らの奥へとそれを押し当てた。
指で多少弄ったくらいでは無理なのだろう、そこは余りにも狭くて、ぬるぬると滑るだけで挿り込めない。
「…んっ…あ…ああっ!」
きつい入口を無理やりこじ開けて、弘樹は乱暴に腰を落とした。
締め付けられる窮屈さに彼が随分無理をしているだろう事が分かる。
「う…っ…んっ……。」
痛みに震える腰は繋がったまま全く動けず、辛さに弘樹が小さくしゃくりあげる。
前を擦ってやっていた指を離し、弘樹の頬に触れると、その頬が濡れている事に気がついた。
痛みの為か、ぼろぼろと涙をこぼす頬を両手で包み込んで、引き寄せた。
熱い、上気した弘樹の頬。
汗やら涙やらで顔にはりついた柔らかい髪を掻きあげ、頬をつたう涙を指先で拭う。
乱れる息を懸命に整えながら、ゆっくりと弘樹が動き始めた。
まだ痛むのだろう、時折ひきつった様な声を漏らしながらも、俺の上で必死に腰を使う。
弘樹。
何度もその名を呼ぼうとして俺は息を飲んだ。
そうだ、今俺が抱いているのは弘樹であってはいけない。
このプライドが高くそれでいて臆病な男の尊厳の為にも。
たった一言、これまでずっと隠し続けて来た想いを吐き出してくれたなら、その名を呼んで抱き寄せてやる事だって出来たのに、お前が選んだ方法では、どうやったって傷つける事しか出来ないじゃないか。
俺が孝浩の話をする度、今にも泣きそうな顔で俺を見つめていた事、多分お前は自覚していないだろう。
期待を裏切り、絶望させ、打ち明けられない思いに追い詰められる程に、弘樹は綺麗になっていく。
苦しそうに呻くだけだった声に、しだいに甘さが混じり始めた。
俺のものを飲み込んだそこは徐々に柔らかくほぐれ、動きに合わせて絡みついてくる。
「あっ…あっ……っ。」
下から腰を突き上げてやると、止めどなく甘やかな喘ぎが零れた。
孝浩の名前を出してまで今さら俺に抱かれようとしたのは何故だ。
失恋して落ち込んでいるだろう俺への同情だったのか。
体を投げ出しても、思いは告げない、弘樹お前の自尊心を粉々に砕いてやりたい。
傷ついて、傷ついて、とことんまでボロボロにされれば、お前は俺を好きだと言えるのだろうか。
「…ひろ………孝浩………。」
俺がその名を呟いた瞬間、弘樹の動きが凍りついたのが分かった。
動けなくなった腰を両手で乱暴に引き寄せ、激しく突き上げてやる。
可哀想な弘樹。
どうしようもなく身勝手な自分。
体の痛みとは別の涙が弘樹の頬を伝い、繋がったままの俺の体の上まで降ってくる。
それから数週間。
お互いの生活パターンが変わっても、何だかんだと理由をつけては互いの家を行き来し、連絡を欠かした事など無かった弘樹と全く連絡が取れなくなってしまった。
同じ文学部の奴に聞けば講義を休んでいる訳ではないようで、きちんと大学には通っているものの、俺と顔を合わす事は無く、携帯にかけても出ないし、どうやら徹底的に避けられているらしい。
自分から誘っておいて、どういう態度だ、と初めは腹立たしく思ったりもしたが、俺の手のひらを濡らしたあの日の涙を思い出すと、想像以上にあいつを追い詰めてしまったのだろうかと自己嫌悪に苛まれた。
これだから、友人だった人間と恋愛沙汰をおこすのは良くないんだ。
恋に破れた後、友人同士としての付き合いまで失ってしまう。
孝浩にしろ、弘樹にしろ、俺は何ひとつ失うつもりはない。
弘樹の事だ、一通り落ち込んで泣いてぐるぐる迷った挙げ句、どうせ結局最後にはここへ戻ってくるのだろう。
締め切りの迫った原稿を少しでも進めようかとPCの電源を入れたが、その白い画面を見つめているだけで、ただ悪戯に時間が過ぎ、結局1行も浮かばずに再び電源を落とした。
これまでも仕事が立て込んだり、弘樹が研究やレポートで忙しかったりで1ケ月くらい会わない事はざらにあった。
それでも律儀なあいつは会えない時にも体調を案じて電話をくれたり、新刊の感想をメールしてくれたりして、必ずこまめに連絡をよこして来ていたのだ。
大学に通えるなら体を壊している訳ではない。
携帯の着信まで無視して、いつまでそうやって拗ねているつもりなんだ。
ふと脳裏に、あの日の光景が蘇る。
手で触れた肌の滑らかさ。華奢なくせに骨張ってはいなくて、均等に薄く筋肉のついた美しい体。
切ない声で繰り返し俺の名を呼び、何度も何度も口づけ、俺を思って泣いた、弘樹。
このままここでこうしていても、気になって仕事にはならないし、自宅に居て担当からの電話を受けるのも鬱陶しかったので、俺は上着とマフラーを掴むと出かける事に決めた。
とりあえず、弘樹のアパートを訪ねてみよう。
急に行って留守でもそれはそれで仕方がないし、ちょっとでも直接顔を見ない事には心配で何も手がつけられそうにない。
古本屋で見つけておいた弘樹の好きな作家の希少本を手土産に、通い慣れた部屋のドアを目指す。
部屋の前まで来てしまってから、ふいにドアを開けるのが怖くなる。
自宅よりも居心地の良かったその部屋が、今日はあまりにも遠い。
「ハイハイ、出ます。」
呼び鈴を鳴らすと、部屋の中から聞き慣れた声が返ってくる。
意外に声は元気そうで、俺は胸を撫でおろした。
「秋彦……。」
最後に会った時よりも、少し痩せたように見える弘樹は、俺の顔を見ると、驚いたような、慌てたような複雑な表情を一瞬見せた後、ふと視線を外した。
「生きてたか。連絡もよこさないし、大学でもつかまらない、どっかでのたれ死んでいるもんだとばかり。」
「…ケッ。そりゃー残念だったな。こっちは論文2本抱えてて、大小説家先生と遊んでるヒマねーんだよ。」
「茶化すな。これでも心配してたんだぞ。…お前ちゃんと食ってんのか?顔色悪いぞ。」
俺から目を背けたまま、憎まれ口を叩く弘樹の頭をそっとかき乱す。
無理はしていても、今まで通りに応えてくれる事が正直嬉しかった。
持参した本を渡そうと手元に視線を移したその瞬間、一陣の風が吹いた。
「すみません。ヒロさんは、俺が貰います。」
突然、目の前にいた弘樹を抱きかかえるようにしてかっ拐った大きな手。
一瞬、何が起こったのか分からないでいるうちに、目の前でドアがバタンと閉じられる。
その時には顔を見るどころか、驚くばかりで、混乱した頭を落ち着かせるので必死だったが、それから時を経て、その時会った男が、この後弘樹と長い付き合いになる年下の恋人、草間野分だったのだと、知った。
あれから7年の時が過ぎ、弘樹とは以前と同じように、気心の知れた幼馴染みに戻り、お互い暗黙のうちにあの日の事は口にはしていない。
二人共に、ツラい片思いの時代を終え、今、俺には美咲がおり、弘樹は恋人と一緒に暮らしている。
ただ、何かのきっかけでふと思う時があって、あの日弘樹から一言でも「好きだ」と告げられていたなら……俺達はどうなっていただろう。
研究室のソファでくつろぐ俺に構わず、弘樹はノートパソコンの電源を入れて、真剣な顔で何か作業をし始めた。
「ところでお前、学生達から『鬼の上條』って呼ばれているんだって?」
「ここは学問をする場だ。大学に遊びに来ているような奴にどう思われようと関係ない。」
「皆が皆、お前みたいに完璧に出来る訳じゃないんだから、少しは大目に見てやってくれ。」
「ん?何だ?」
「いや、こっちの話だ。」
大学助教授になり、鬼と呼ばれ、スーツ姿もだいぶん様になって来たように思えるが、弘樹の見た目はあの頃から殆ど変わらず、童顔なのも手伝って今でも私服姿だと学生と見間違えられると言う。
30歳目前の男としてはそれでは困ると本人はコンプレックスのようだが、今は医者のたまごだという年下の彼氏にとっては喜ばしい事なのかもしれないな、と思う。
「何だよ…。人の顔じろじろ見て。気持ち悪いな。」
「いや、別に。」
もう1時間もすれば美咲の授業も終わる。
それまでここで時間をつぶして、授業が終わった美咲を車に乗せたら、少し遠回りをして帰ろう。
好きになった人間から同じように好きになってもらえるという事は簡単な事じゃない。
どれだけ思っても、恋焦がれても届かない思いはそこらじゅうにあふれていて、気持ちが通じ合い愛しあえるという事は大変な奇跡なのだ。
「弘樹、お前もたまには恋人に素直に甘えたり、気持ちを伝えたりしてやれよ。いつまでも意地張ってばかりで可愛くないと愛想つかされるぞ。」
「うるさいな。おっ…お前に俺達の何が分かるっていうんだよ!秋彦に心配されるような事など何も無いっ!」
「口は悪いわ、愛想はないわ、すぐに手やら足やらが出る、とんだ跳ねっ返りだからな。」
「うるさい、うるさい!!何だよ、今日はやけに絡むな。俺の事なんかどーだっていいだろう。」
「ただの締め切り前のストレス解消だ。」
「………帰れ。」
窓から差し込む陽射しが弘樹の色素の薄い髪をきらきらと輝かせていて、俺は眩しさにそっと目を閉じた。
◇終わり◇
作品解説
ヒロさん自身は「当たって砕けて玉砕。失恋」だと
思っているうさぎさんとの目隠しえっち。
だけど、いくら傷心後とはいえ
好きではない人間には容赦ないうさぎさんが
大事な幼馴染みから誘われたとはいえ
どうして受け入れたんだろう・・・と不思議だったんですね。
それに勘のいい感受性豊かなうさぎさんが
感情だだ漏れのヒロさんからの恋慕を
あんなにも長い間気付かない訳がない、と思うのです。
ヒロさんが忘れたい暗黒のヒトコマを
少しでも報われるものになればいいなと
思いながら書きました。