『心揺』



深夜に差し掛かり、更に雨は勢いを増しているようで、研究室の窓を叩く雨音を耳にする度に帰るのが億劫になっていって、帰宅時間を引き延ばしているうちに、今日中にやっておきたかった作業が終わってしまった。
まあ、保留にしてある論文や、後回しになっていた調べ物など、仕事を探せばキリが無かったがいい加減観念して切り上げた方がいいかもしれない。
デスクの上に無造作に積み上げてあった資料を抱えると、ひとけの無い廊下を抜けて図書室へと本を返しに行く。この時期、こんな時間に残っている大学関係者も生徒もあまりいないようで、文学部の入ったこの棟は静まり返っている。聞こえるのは降り止む気配すらない雨の音と俺の足音だけ。

資料を一通り所定位置に返し終わり、図書室の電気を消して暗い廊下に出たところで、ふいに人の気配がして振り返る。

「・・・・!! うっわ、びっくりしたっ! あれ?上條?」

廊下の暗さに目が追い付いてなくて、最初分からなかったのだが、よく目をこらすと真っ暗な中に全身から水を滴らせた上條がぽつんと立ちつくしていた。

「・・・・あ・・・教授、まだいたんですか。」

どれだけ雨に濡れていたのか、上條は髪も服もぐっしょりと濡れて、まるで服を着たままシャワーでも浴びてきたのかといった哀れな風貌に俺は眉を顰める。

「何だ、お前。ひでー格好だな。・・・・待ってろ、タオル持ってくる。」

自分の研究室にタオルを取りに戻る為足早になりながら、俺の心臓は早鐘を打ち始めていた。

どういう事だ。

上條がここを出たのは何時間前の事だ?
そのうち雨が降り出し、雨足が酷くなってからもずいぶん経つ。

その間ずっと・・・こいつはどこで何をしていたのだろう。

研究室の棚からバスタオルを引っ掴み、急いで廊下に戻ると、上條はまだ所在なくその場に俯いていて、顔を隠す長めの前髪から、ポタポタと水滴が零れて床を濡らしていた。
長い時間雨に打たれていたせいか、ワイシャツはべったりと肌に張り付き、ネクタイもスラックスも色が変わって見える程に水を吸っている。

「おーおー・・・ぬれネズミってのはこういう事言うんだな。」

頭の上からバスタオルをかぶせ、ごしごしと頭を拭いてやっても上條は無抵抗でされるがまま俯いてびしょぬれの床を見つめていた。

「これじゃパンツもぐしょぐしょだろ。」

「結構・・・・。」

いつもだったら真っ赤になって騒ぐような言葉もあっさりと流されて、どれだけ今、上條が弱っているのかが伺えるようだ。

この雨の中、あの男をずっと待っていたんだな・・・。

濡れた髪をタオルで拭いてやりながら、ふと指先に触れた額がひんやりと冷たい。
だんだんと暗さに慣れてきた目でその姿を見とめると、夏場とはいえ薄いワイシャツ一枚で雨に濡れたせいか、すっかり冷え切ってしまったようで、上條の顔はうっすらと青白く、いつもは紅い唇も色を失くしていた。

「どうした、フラれたか?」

俺のつぶやきに、上條の表情が凍る。

「・・・・はい?  ・・・何言ってんですか。 人を茶化すのも、いい加減にして下さいよ。俺は・・・。」

バスタオルを被ったまま、ゆっくりと上條が顎を上げた。

大きく見開いた淡い琥珀の瞳から、はらはらと大粒の涙が零れ落ちる。
透き通るように白い頬を濡らす涙は奇跡みたいに綺麗で、俺は思わず息を飲んだ。

「・・・・あ・・・はは・・・あ、すみません。 何してんだか・・・・・俺。 あの・・・マジ何でもないんで。」

泣き顔を見せた事が急に恥ずかしくなったのか、上條は慌てて手のひらや指先で、涙を拭おうとするものの、次から次へとあふれる涙は止まる事なく、頬から顎へと流れ落ちていく。
瞳を潤ませる上條の肩は胸が締めつけられるくらいに細く頼りなく揺れて見えた。

気がついた時、俺はバスタオルごと、上條をきつく抱きしめていた。

 

抱き締めた上條の華奢さに改めて驚かされる。
そんなに小柄な方でもないし、小さめの顔も姿勢が良くすらりとした体もバランス良く、普段からスタイルがいいなとは思っていたが、力をこめたら折れてしまいそうな上背や腰に気付いた途端、胸の中が熱くなった。

「上條、お前さ・・・完全武装してるつもりで実はスキだらけって事、自覚してねーだろ。」

抱き締める腕の力をさらに強くすると、腕の中戸惑っているらしい上條が小さく身を捩る。俺の胸を押し返そうと手のひらに力が入るものの抵抗する力は弱い。

「・・・?・・・あの、教授・・・離して下さい。」

濡れて冷え切った上條の体。
いつもよりずっと幼く見えた泣き顔。
雨に打たれたシャツから透ける肌の白さと、艶めかしさ。

そこにある上條の形をしたもの全てが俺を煽る。

「・・・教授・・。」

「イヤ。」

抗う上條の体をいっそう強く抱きよせた後、細い頤をすくいあげ上向かせると、驚きに大きく見開かれた瞳はガラス玉みたいに透き通っていて、みるみるうちに涙の粒が盛り上がり瞬きの弾みで白く艶やかな頬に零れ落ちる。

薄く開かれた口唇は清らな花の花弁の様で、無理やりに暴いてやりたくなってしまう。清純そうに見えるその奥に潜む淫らさを。

口づけようと顔を近づけても、上條は唖然としたまま全く無防備で、誘われるように俺はその唇を求めていった。

「やめろ!!」

突然に廊下の窓ガラスを震わせる様な怒号が響きわたる。
驚く間もなく、俺はそいつに胸倉を掴まれ思いっきり壁へと叩きつけられた。

「野分、やめろっ!!」

見上げる長身。黒い大きな影が目の前に立ちはだかり、長めの前髪の隙間から覗く双眼は怒りの焔を宿していて、その恐ろしさに一瞬で体中の血が冷える。

「馬鹿野郎やめねーか!」

拳を固め、殴りかかろうとするその男を上條が必死に止めようとすがりついた。
上條の制止にようやく掴みあげられていた手が振りほどかれる。

壁にぶつけた後頭部がズキズキと痛み、締め上げられた喉元が悲鳴をあげていた。
一瞬の衝撃に思考回路がうまく作動しない。何だ、こいつは。誰なんだ?
野分・・・?・・そうか、アイツか。上條のオトコ。確かそんな名前だったよな・・・。

「・・・・・って〜〜〜〜〜〜〜。」

「教授!スミマセン大丈夫ですかっ?!ごめんなさいケガは・・・・。」

はあはあと肩で大きく息をしていた男が、慌てて俺を気遣う上條の腕を力いっぱい掴み、そのまま引きずるようにして廊下を歩き去って行こうとする。

「上條!」

あまりの事にすぐにその後を追う事も出来ず立ち尽くす俺の呼ぶ声は、恐らく上條には届いていない。

無人の廊下に上條と男の怒声が響きわたっている。
二人はもつれ合うように廊下の先へと進んでいき、抵抗して暴れる上條の体を男は乱暴に引きずり、図書室の中へと入って行く。
2人の姿がすっかり消えた後、慌てて俺はその後を追った。

興奮して頭に血がのぼっている男が上條に何かするんじゃないかと急に背中が寒くなってくる。
もし上條に何かあったらーーーーー!
ふらつく足元を叱咤しながらよろよろと図書室の扉までたどり着くと、中から二人の言い争う声と物が落ちる音が響きわたった。

そうだ・・・警察!

通報しようと胸ポケットを探るが、所定場所に携帯電話は無く、研究室の机に置きっぱなしにしていたのをふと思い出し舌打ちした。

仕方ない、取りに戻ろう。

大声で恋人を罵倒し続けている上條に気持ちを残しつつ、研究室に戻ろうと振り返ったその時、バサバサと本が床に崩れる音と、何かがぶつかる鈍い音が響いた。
途端、言い争う声がぴたりと止む。

 


ふいに訪れた沈黙に研究室に戻りかけた俺の足も止まった。

そっと図書室のドアを開けるが、入口付近から上條達の姿は見えず、様子を知りたくて俺は本棚の立ち並ぶ通路をひとつひとつ確認して行った。
床には雨でびしょ濡れだった2人の足跡がそこらじゅうに残っている。それを辿って奥へと進んでいくと、ぼそぼそとした話し声が聞こえてきた。

そうか、落ち着いたのか。
それなら通報も必要ないし、俺の出る幕でもないだろう・・・と研究室に戻ろうと踵を返した背中に、上條の声が響いた。

「ふざけんな!冗談じゃねーぞバカヤロー!」

重たい本が床に落ちるバサバサという音と、物のぶつかり合う音が再度響きわたった。
何だ?キレて暴れて物投げてんのは、上條の方か?

止めに入った方がいいのか、このまま本人達に任せてそっとしておいた方がいいのか正直悩む。口を挟むのは野暮な気もするし、かといって大学の大切な蔵書をいたずらに傷められたのでは困る。

聞こえてくる怒声も、聞けば上條のものばかりで、とりあえず上條の身の危険は回避されてるようだ。それなら図書室の蔵書を落としたり投げた件に関しては後でたっぷり絞りあげるとして、俺は部屋に帰る事に決めた。

「好きだ。好き・・・好きだ。好きなんだよ・・・好きで悪いか!チクショーバカヤロー!」

大声でひとしきり叫んだ後、上條の掠れた涙声が途切れ途切れに聞こえてくる。

ああ、こいつは何て激しい気持ちをその体の内にひた隠していたんだろう。
クールなふりをして、その実、連絡を寄越さない恋人をひたすら待ち続ける一途さがあり、他人に無関心なようでいて、これほどまでに感情を爆発させるような恋もしている。

結局、大騒ぎしただけの痴話喧嘩か。

しかも、うっかり巻き込まれるところだった・・・・。
泣き顔の上條は、思わず正気を失う程にキレイで、その顔を頭に思い浮かべると、それだけで動悸が早くなってくる。
無自覚とはいえ、あれだけ無防備で、どうしようもない程隙だらけの上條。
さぞかし彼氏は心配な事だろう・・・

そっと図書室を立ち去ろうとして、ポケットの中の煙草を探っていると、書棚の向こうからため息のような、泣きじゃくるような、甘い声が途切れ途切れに聞こえてきた。

あいつら・・・・!

大喧嘩して、どしゃぶりの雨に降られて、図書室で鬼ごっこした挙句、その場で仲直りエッチですか!!
いくらこの時間で残ってる奴が少ないとはいえ、他の棟にはまだポツポツと電気も灯っているし、守衛が回って来たらどうするつもりだ!

「あ・・・ああっ・・・やあ・・・・。」

でも、上條の切ない喘ぎ声を聞いていたら怒る気もしなくなって、俺はそっと部屋を出て図書室の扉を閉めると、しばらく誰も来ないように入口に座り込み、煙草に火を点けた。

上條、この貸しは高くつくぞ。

俺はこんな風に、何もかもかなぐり捨てて飛びこめるような恋をした事がない。
たった一度本気になった恋の記憶がいつまでも胸に刺さって抜けなくて、それ以来誰からどれだけ愛を囁かれても、熱くなるどころか古い傷が傷むだけだったから。

 


そうだ。
この時の俺はまだ知らない。

それから幾月かの後、俺のもとに訪れるあまりにも激しく衝撃的な運命の人の降臨を。

 


小一時間経った頃だっただろうか、図書室から上條達が出てくる気配を感じ、俺は煙草を携帯灰皿にねじ込むと、そっと研究室へと戻って行った。

2人が立ち去るまでしばらくパソコンの画面を開いたまま、ぼーっとしていた俺は、まわりが完全に静かになったのを見計らって図書室に戻る。

案の定、奴らがいた棚の向こうは大変な惨状で・・・・。

床に落ちた本を拾い、びしょ濡れであちこち靴の泥の跡が残る床を雑巾で拭く。
図書室を片付けながら、俺は久しぶりに自分が今一人きりなのを「寂しい」と感じた。妻が出て行った時にも「空しい」とは思えども寂しさなど感じた事はなかったのに。
それほど奴らの恋に翻弄されてしまっていたのか。

恋人に散々可愛いがってもらって、普段の姿から想像出来ないくらい甘く艶っぽい声で啼いて。上條は、今どんな気持ちで家路に向っているのだろう。

 


雑巾を固く絞りながら、俺はかわいい部下の幸せを祈った。






 ◇ 終わり ◇






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