『新月』


「おはよーございます。上條先生。」

「・・・おう。高橋もせっかくの休みに悪かったな。」

玄関先でパタパタとスリッパを並べていた高橋が、はたと動きを止め、俺の背後をゆっくりと見上げた。高橋の唇が声には出さず「・・・でか・・・」という形に動いたのを見た。

「えーっと・・・その・・・はじめまして。草間野分といいます。」

野分はのっそりと俺の後ろから半歩前に出ると、大きな体を丁寧に折り曲げて高橋に頭を下げた。

「こっこちらこそっ、はじめまして!高橋美咲です!」

はじめまして・・・じゃないんだけどな。
まあ今になって説明する事もないか・・・と不思議な気持ちで二人の姿を眺めた。

高橋にリビングへと通され、いつ来ても無駄な程にばか広い部屋のソファーセットまでやって来てみると、長椅子の上にぐったりと体を横たえた秋彦が俺たちを出迎えた。

「原稿終わってないって聞いたのに、こんなところで油売ってちゃだめだろ。」

「やかましい。お前達が来るって言ったから貴重な睡眠時間削って待っててやったんだ。話が終わったら、寝るなり書くなりどうとでもする。」

久しぶりに見る幼馴染みの荒みきった有様に、見慣れていた俺であっても少々引いてしまいそうだ。
普段一分の隙もないこの男も、原稿に追われ睡眠不足が続けば当然ながら汚くなる。シャワーもいつ浴びたんだか分からないくらいに頭はボサボサ、目のまわりは何重にも出来た隈で真っ黒、無精ひげもちらほら浮いている。
何度か面識はあっても、完璧な姿しか見た事が無かった野分が、驚いて途中で足を止めてしまった。まあ、気持ちは分からんでもない。

「上條先生ー。コーヒー煎れようと思ってるんですケド、お二人とも、お砂糖とかミルクはどうしましょうか。」

「悪いな、高橋。俺も手伝うわ。」

キッチンで忙しそうに立ち振る舞う高橋を手伝って、教えられた収納から客用カップを取り出し、バカラのシュガーサーバーに、角砂糖を入れた。
横目でソファーの方向を伺うが、野分は相変わらずその場に突っ立ったまま、半死半生の秋彦をぼけっと見下ろしている。

先に口を開いたのは、秋彦の方だった。

「生還、おめでとう。」
ガラガラの声に、いったい何を言われたか分からない表情の野分が、1テンポ遅れて、小さく頭を下げた。

「・・・ハイ。宇佐見さんにもお世話になりまして。」

ああ・・・野分が心にもない事を言う時の声色だ・・・。
ソファ周辺で起こっている、生ぬるい争いの予感に、俺は慌てて準備の出来たトレイを持って野分の元へ戻ってきた。

「野分、お前いつまでそこに立ってるつもりだよ。秋彦も顔くらい洗ってこい。お前の作品のファンにイメージと違うって訴えられるぞ。」

テーブルの上に運んできたトレイを置くと、空いたソファに野分の腕を引っ張ってきて座らせ、俺もその隣に腰を下ろした。
顔を洗ってくる気などないらしい秋彦は、ようやくソファから起き上がると、真っ先に煙草に火を点けた。

「ウサギさーん。朝ご飯出来たんだけど、そっちに運ぼうかー?」

「弘樹、メシは?」

「食ってきてるからいらねーよ。つーか何時だと思ってんだ。昼飯でもおかしくない時間じゃねぇか。」

「俺は普通の会社員の時間軸で生活していない。」

「物書きだって、自己管理してればそんな昼夜逆転したりもしないだろう。」

不機嫌この上ない顔で煙草を咥えた秋彦の前に、高橋が皿を並べ始めた。
教室で見かける平凡でデキの悪いこの先心配な生徒の顔と、野分の世話を頼んだ時に見せたしっかりものの顔と、好きな男の為に甲斐甲斐しく働く、その顔。どれも高橋なんだな。

永遠に縮まらない4歳の年の差を縮めたくて、いつまでたってもどこか焦っている野分とはまた違う、秋彦と高橋の関係性。
秋彦の弛緩しきって、俺達の前だというのに年下の恋人に甘えた様子を見ると、年上なんだから・・・と何年経っても意地を張ってしまう俺はいったい何なんだという気分にさせられる。

 

「あのー・・・上條先生? ひとつ聞いてみたい事があるんですけど・・・。」

「何だ。言ってみろ。」

「さっき紹介された・・・こちらの、草間さんって、先生とはどういう・・・。」

「あ、すみません。ちゃんと言わなくて・・・俺、上條弘樹さんの、こいび・・。」

「野分!!!」

俺は寸でのところで迂闊な野分の口を塞いだ。
高橋は秋彦の恋人で同居人ではあるが、一応俺の生徒だぞ!俺に赤っ恥かかせる気か、このやろう。

「そちらは弘樹の恋人だ。もう7年か、8年くらいになるか?」

「秋彦ーーーー!!!」

残念な事に俺の両手は野分の口を押さえているのが精一杯で、秋彦にまでは手が回らなかった。
おそるおそる高橋の方に視線を移すと、真っ赤な顔で俺と野分の顔を見比べていて、見ているこっちが恥ずかしくなる。

「・・・かみじょー先生の・・・こいびと?」

ああああ・・・・俺は明日から、どんな顔して授業に出ればいいんだ。
俺がこれまで必死に築きあげてきた、鬼の上條のイメージが・・・。

「そうなんですね。あなたが・・・。俺ずっと上條先生が好きな人、会ってみたいなって思っていたんです。」

「へ?」

高橋の唐突な発言に素っ頓狂な声が出る。

「俺・・・ちょっと前まで先生の事、すごく怖い人だって思い込んでて、実際授業でも厳しいし、しょっちゅうチョークとかテキストとか、色んな物が飛んでくるし、レポート多いし、代返きかないし、レポート出しても判定厳しいし・・・。」

ちらちらとこちらを振り返りながら指折り数えて俺の鬼っぷりを挙げていく高橋の話を、横にいる野分も、向かいに座る秋彦も至極楽しそうに聞いている。

「それが、先生に赤ちゃんのお世話を頼まれて研究室に顔を出すようになって、授業以外の先生に会うようになったら、俺、何でこの人の事怖いって思っていたんだろう・・・って不思議になってきたんです。」

高橋はいったい何を言わんとしているんだ・・・・?

「赤ちゃんを抱っこしている先生はいつも一生懸命で、でもどこか不器用で・・・とても鬼には見えませんでした。」

「・・・俺には最初っから鬼になど見えないがな。」

「そりゃあウサギさんは子供の頃から見てるからだよ。」

途中で口を挟んだ秋彦の方に、野分がちらりと視線を移す。
バカ、何ガン飛ばしてんだ。
秋彦も変にこいつを刺激しないでくれよ・・・・。

「そういう姿見てるうちに、だんだんと・・・ああ先生ってすごく根っから真面目なだけで、人を苛めて喜ぶような人じゃないんだ・・・って気付いて。」

これは何の嫌がらせだ・・・・?

「一番びっくりしたのが、研究室に俺が赤ちゃんの世話でお手伝いに行ってる時だったんですけど・・・先生、寝不足で疲れているみたいで・・・珍しく俺に赤ちゃん預けてソファで寝ちゃった事があって。」

視界の端で、やけに嬉しそうな、野分の視線を感じる・・・。
何だよ、高橋はいったい何の話がしたいんだよ!発言する時はだな、もう少し要点をまとめて順序良くだな・・・

「先生、ずっと同じ人の名前、呼ばれていました。」

ーーーーーーーーー!!!

「・・・った・・たっ・・・高橋・・・・?!」

「ふと思い出しちゃったんですけど、草間さん、あなたの名前でした。」

いたたまれなさにソファから勢いよく立ちあがった俺を野分が見つめている気配が隣からビシバシ伝わってくる。もう見なくても想像がつく・・・・・きっといつもの、あの心臓に悪い、とろけそうな笑顔で・・・・!!

 


「俺ね、最初は先生の寝言・・・人の名前だとは思わなくて。何だろ、ノワキって・・・とか考えてたんです。聞き間違えかなっと思って、耳をすますんだけど、どう聞いてもノワキって言ってる・・・何だろうって。」

あまりの恥ずかしさに、もう帰ってやろうかと一歩後ずさったところで、腰を後ろから野分に抱き留められる。

「バカ・・・!離せ。」

「ノワキ、ノワキ・・・って繰り返し呼ぶ先生が心配で、俺・・・何度も起こした方がいいのかなって悩みました。でも慣れない小さい子供の世話できっと眠れてなかったんだろうし、ノワキって言った後の先生は、ほんの少しいつもの眉間のしわがとれていて、苦しそうじゃなかったから、まあいいかなって・・・俺、預かった先生の赤ちゃんあやしながら、ずっと先生の寝顔見てたんです。」

これは何の羞恥プレイなのだろう。
煙草の煙を細く吐き出しながら、無遠慮にこっちを見てくる秋彦の視線にも耐え難いし、高橋は何だか嬉しそうにべらべらしゃべり続けてくれるし、野分はどさくさ紛れにソファに座ったまま両腕で俺の腰をホールドしていて、この場から逃げ出す事も叶わない。

「だから、さっき草間さんのお名前をお聞きして、やっと納得しました。そうか、先生は恋人の名前を寝言で言ってたんだなって!」

頼むから、誰か高橋を止めてくれ。

「こいつは昔から寝言をよく言うんだ。」

「秋彦!変な言い方すんな!お前が知ってんの、小学生の頃の話だろ!!」

「ヒロさん、今でもよく寝ながら何か色々言ってますよ。結構はっきり言うんで、いつも面白いです。」

「野分っ!てめぇ・・・お前どっちの味方だ!」

「ヒロさんに決まってます。」

「だったら無駄口叩かずに黙ってろ!」

「いいじゃないか、寝言くらい。お前酔っぱらった時なんか特に酷いが、素面でも結構恋人の話ばかりしてるぞ。自覚ないのか。」

知らん、知らん!!
そんな覚えなんかない!

何だよ、こいつら寄ってたかって人の事バカにしてんのか。
そうだよ、どうせ俺は、気がつきゃ野分の事ばかり考えてるよ。
それの何が悪い!!

「・・・・上條先生が・・・真っ赤だ。」

「つくづく分かりやすい男だな。」

「嬉しいです、ヒロさん。」

あまりの脱力感に野分に引き寄せられるまま、野分の腰に密着した位置でソファに戻され、腰に手を回されたままだったが、もう今更どーでも良かった。

「いちゃつきたいなら、部屋を貸してやってもいいぞ。美咲の部屋ならいつでもシーツの折り目も正しくきっちりしてある。」

「バカ!死ね、秋彦!」

「お心遣いありがとうございます。でも、あんまり長居をしても宇佐見さんの仕事に差し支えますし、そろそろおいとまさせてもらいますから。」

「一刻も早く連れて帰って可愛がりたいのか。」

「ウサギさん!最低だ!ただのセクハラ親父じゃん!」

「はい。一刻も早く帰って、家で二人になりたい気分です。」

「草間さんまでっ!」

俺はズキズキと痛む頭を抱えながら、どのタイミングで帰ろうとすればいいのだろう・・・と悩んでいた。今すぐ立ち上がれば、野分とイチャつきたくて急いでいるみたいだし、だからってこれ以上ここに居て、好き勝手言われるのは苦痛以外の何ものでもない。

「あ、先生達帰られるんだったら、俺渡したいものが・・・。お昼にみんなで食べようかなって思って、押し寿司たくさん作ったんです。草間さん分けるの手伝ってもらっていいですか。」

「ありがとうございます。手伝います。」

台所に野分と高橋が行ってしまった後、ソファに秋彦と二人取り残された俺は、手持ち無沙汰なあまり傍にあった巨大な熊のぬいぐるみを引き寄せ、悠々と味噌汁を飲む秋彦を恨みがましく睨んでいた。

「弘樹。」

「・・・・・・ンだよ・・・。」

「・・・・良かったな。」

台所に居る二人にはきっと聞こえなかっただろう、小さな声でそう言われ、俺はやっと素直に頷く事が出来たのだった。





「あー・・・何だな。手土産のおかげで寄り道も出来そうにないな。」

「どうしてです?」

「え・・。だって弁当持ち歩く訳にもいかねぇだろ。生ものなんだぞ。それにお前も重いだろうし、それ。悪かったな、そんなにたくさん。断れば良かったか・・・。」

俺は高橋に持たされた紙袋を顔の前に掲げて見せる。
野分は、秋彦から高級そうなワインや日本酒を何本も貰った為に、重そうな紙袋で両手ともに塞がっていた。

「俺なら大丈夫です。それにヒロさん寄りたい所があるならいいですよ。一緒に行きます。」

「・・・いや、別にこれといって用がある訳でもないし・・・。」

「それじゃあお花見にでも行きますか?せっかく弁当も酒もありますし。」

「花見ィ?そんな季節外れな・・・・。」

「いえ、桜は終わりましたけど、小石川後楽園とか、今ならスイレンや紫陽花、花菖蒲がきれいだと思います。近いし寄って帰りませんか?」

「別に・・・いいけど。・・・でもあれだぜ、こんな桜のシーズンでもないのに、昼間っから男二人で弁当持って庭園を闊歩って目立つぞ。どうせ年寄りばっかりなんだろうしさ・・・まわりは。」

「いいじゃないですか。目立ったって。それにあそこだったら学生さんはいませんよ?」

野分はこういう時、俺が断りにくいように先手先手を打ってくるような気がする。

手には高橋手製の色とりどりの押し寿司とちょこちょこと気の利いたおかずと言おうかつまみと言おうかといった感じの総菜が入れられていて、確かに花を見ながら公園で弁当を開けるのも悪くないなぁと思いだしている。

天気は見事なまでの五月晴れ。

滅多にない野分と二人の休みで、このまま帰ってしまうのも勿体ない気がしていたのは確かなのだ。

「大丈夫です。可愛がるのは夜からで十分ですし。」

公園での花見にすっかり気分が盛り上がってきていた俺の耳元に野分がぼそっと囁いた。

「な・・・・!何を・・・お前はっ!・・・せっかく人が爽やかな気分でいるというのに・・・。それにお前もお前だっ。何を秋彦の口車に乗ってやがんだ!俺はこれっぽっちも、可愛がってなんかいらん!」

「・・・しー。ヒロさん声大きいです。」

はっと気がついてまわりを見ると、道の往来で大声で叫ぶ俺を遠巻きに人々が視線を投げているのに気がつく。あ、そこのベビーカー押した母親、急に方向転換しやがった!!俺は不審人物か。

「行きましょう。俺、久しぶりにヒロさんとデートしたい気分なんです。」

「しょーがねーなぁ。たまにはいいか。」

仕方ないと言いながら、多分わくわくしているのは俺の方だ。
野分は多分公園だろうが、本屋だろうが、映画館だろうが、俺と一緒ならどこでもいいとほざくぐらいだ。俺の行きたいところが野分の行きたいところ、で構わないんだろう。

 

 


当たり前の日常にまた慣れてしまえば、今がどれだけ幸福か忘れてしまいそうになるけれど、忘れてしまわないように、俺は何度でもくりかえし思い出す。

こいつを失いたくないと祈った日々を。

どんな姿でもいい、傍にいて欲しいと願った夜を。

何があっても俺が守らなければと誓った事を。

今、こうして俺達二人が並んで歩いているという事、それがどれだけ大変な奇跡なのかを・・・。

 

街路樹の緑の葉が太陽の光を乱反射させていて、野分の黒髪が輝いて見える。
隣を歩く俺の顔を嬉しそうに見つめるその顔をちらちらと見やりながら、胸いっぱいに拡がるあたたかな気持ちを抱き締める。

俺はこれからもずっと、こいつと生きていく。

だって、こいつの人生丸ごと頂いちゃったんだもんな。俺にはそうする責任ってヤツがあるんだ。

「ヒロさん。」

「何。」

「大好きです。」

ふいをつかれて思わず頷きそうになった俺は、ぶっきらぼうに顔を背けると少し歩を早めた。

「は・・・腹減ってきたから、急ごうぜ。」

「はい、ヒロさん。」

焦るあまり小走りになりかかっていた俺のあいた方の手を野分がそっと掴んだ。
大きくてあったかい手。

俺だけの・・・・野分の手。

 

 


今日が晴れてて本当に良かった。

 

 

 

 

 

 

 ◇ 終話 ◇ 

20090401連載開始〜20090520連載完了



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