『傷痕』 前編
誰にでも、忘れたい過去の一つや二つ、当然あるだろう。
ましてやそれが若き日の過ちであるならば。
10歳の頃からだから、もう二十年近くの付き合いになる幼馴染みの弘樹とは、今でも気のおけない親友として付き合い続けている。
奴には大学院生の時に、恋人が出来て、最近になってその恋人と一緒に暮らし始めたと聞いてからは、さすがに自宅を訪ねる事は自粛しているが、その分本の貸し借りを理由にして、奴の勤務先である大学を訪れる事が多くなった。
「何だ、秋彦。来るんだったら一言連絡よこせっていつも言ってるだろ。」
山ほどの資料を抱えた弘樹が研究室のドアを背中で押し開きながら顔を覗かせる。
「いや、これといって用事は無いからな。居なければ居ないで、勝手にさせてもらうつもりでいたから。」
「どーせまた締め切りぶっちぎって逃げ回ってんだろ。いい加減、俺の所を避難所にするのをヤメロ。」
「お前の部屋が一番落ち着くんだ。」
「それは何十年も前から繰り返し聞いてる。締め切り破っといて、落ち着いてんじゃねーよ。」
論文が立て込んで帰宅出来ない時にはベッド代わりになる2人がけのソファに座って、勝手にくつろぐ秋彦の頭を軽く資料の山でコツンと小突いて、弘樹はデスクの前に置かれた椅子に腰を下ろした。
「ところで、最近…同居人とはうまくいってるのか?」
「うまく…って、何がだよ。」
「お前はすぐに、しょうもない事を一人でぐるぐる考え過ぎて、暴走する悪いクセがあるからな。」
「…うるせぇ。」
「しかも時に被害妄想も甚だしい。」
「俺に何か文句があるんだったら即刻帰ってくれ。」
弘樹はコーヒーメイカーに珈琲豆をセットしながら、露骨に嫌そうな顔をする。
「まぁ、俺としてはお前が幸せであってくれればそれで満足なんだ。」
「何だ、それ。訳分かんねぇ。」
つっけんどんな言い方はしていても、どこか照れくさそうに、恥ずかしがっているように見えるのは、この何年かで見られるようになった変化だと思う。意地っ張りで、クールを装うわりに激情型で、本当は泣き虫で、誰より一途な…俺の幼馴染み。
どうか、幸せになって欲しいと俺が願うのはお門違いだろうが、思わずにはいられない。
7年前、酷い傷痕をつけてしまっただろう、あの日の記憶が消えない限り。
時は7年前に遡る…
俺はT大法学部に、弘樹は同じ大学の文学部に在席しており、すでにプロの小説家として歩み出していた俺は、今と変わらず締め切りと編集者から追われる生活をしていた。
「弘樹、頼む。ちょっと寝かせてくれ。もう3日まともに眠れていないんだ。」
弘樹が大学入学と共に借りた、一人暮らしのアパートの扉を開けると、呆れ顔の弘樹と床に所狭しと積み上げられた本の山に迎えられる。
「何だよ〜。俺、レポート提出前で、お前と遊んでやってる暇なんてねーっつーの。」
「遊んでくれなくていい。ベッド貸してくれ。眠い。」
「人ん家ホテルがわりにすんなよな。」
一見迷惑そうに文句を言いながらも、こういう時に弘樹から拒絶された事は一度もない。
それこそ幼い頃から、居場所の無い豪邸の中で、一人ぼっちだった俺の唯一の心の拠り所が、向かいに住む同い年の弘樹の存在だった。
お互いに本が好きな子供で、一緒に過ごす時間、俺はノートに物語を綴り、弘樹はその脇で黙って本を読んでいた。
何も話したくなければ何も話さなくていい、ただお互いが存在しているというそれだけで安心出来る…そんな場所。
出会ってから十数年、俺は今でもそれを弘樹に求めているんだろうか。
「お前な、どうせなら大好きな孝浩の所に行けよ。」
「俺はここがいいんだ。…それに、孝浩の家には弟がいる。」
弘樹のベッドに遠慮なくもぐり込むと、毛布にくるまる俺をちらりと見やってから、
弘樹は何もなかったかのように、ベッドの脇に腰を下ろし、本を開いた。
背中を向けていて、その表情は伺えないものの、いつもの静かで優しい空気に部屋が満たされる。
俺の存在を否定しない、全て受け入れてくれる安心感。
本当なら両親から教えられるそれを俺に教えてくれたのは、ずっと傍にいたコイツなのかもしれない。
しだいに薄れていく意識の中で、弘樹が本のページをめくる音だけが耳に響いた。
孝浩との約束の場所に到着したのは約束の15分前で、たくさんの人が行き交う中、そろそろ現れるだろう孝浩の姿を探した。
いつ頃からだろう、孝浩に惹かれるようになったのは。
俺とは違って、家族仲良くあたたかい…幸せな普通の家庭に生まれて育った、そんな孝浩から感じられる幸福の香り…最初の頃は、そんな家庭的な雰囲気に憧れた。
その後、大学進学を目前にしたある日、孝浩の両親が揃って事故死してしまい、まだ幼い弟と2人遺された孝浩は大学進学を諦めて就職した。
けなげに一人で頑張ろうとする孝浩の力になりたいと俺は願ったけれど、当時まだ学生だった俺に出来る事などさして無く、そして孝浩自身が決してそれを望んでなど無かった。
そんな俺に出来た事といえば、自分の中の感情を殺し、孝浩の一番の「親友」として、付き合い続ける事だけ。
大切だからこそ、この気持ちは知られる訳にはいかない。
俺の汚い欲情を知られて孝浩を失うくらいなら、俺は永遠に口をつぐみ続けるだろう…。
「秋彦ー。」
通勤ラッシュの人の波の向こうから、仕事帰りでスーツ姿の孝浩が笑顔で俺に手をふる。
「どうしたんだ、今日は随分機嫌がいいじゃないか。」
「うん、まぁね。…今日は秋彦に聞いてもらいたい話があるんだよ。」
「ほう。それじゃあ今夜は食事をご馳走するから、その話というのをゆっくり聞かせてもらおうか。」
食事の後、孝浩を駅まで見送ったのは確かなのだが、その後どうやってマンションに帰りついたのか正直記憶が無い。
気がついたら自宅のリビングで茫然と携帯電話を握っていて、電話の向こうで弘樹が必死に俺の名前を呼んでいる声がしていた。
そのうち電波が途絶え、その声も遠くなって、俺は一人この世界に取り残される。
『秋彦、俺ね彼女が出来たんだ。』
食事に入ったレストランで、嬉しそうに話す孝浩を見つめながら、体がグラリと揺れたように感じた。
「良かったじゃないか。孝浩が選んだ子だ。いい子なんだろうな。」
「また秋彦にも紹介したいと思ってるんだけど、どうかな。」
「もちろん。また都合のいい日があったら連絡してくれ。」
笑顔の孝浩に動揺を悟られないよう、俺は笑みを浮かべながら孝浩をまっすぐ見つめ返す。
胸の中に、ドロリとした残酷な感情が拡がっていく。
孝浩を愛しく思う気持ちと、俺の思いに全く気付かない彼を憎らしく思う気持ちとがぐちゃぐちゃにせめぎ合う。
それから先、何を食べても砂を噛むような味しかしなかった。
とっくに諦めはついているつもりでいた。
孝浩をどんなに愛していても、彼の幸せを歪ませる気など毛頭なく、いずれ誰かを愛し、結婚する日が来たとしても、友人として祝ってやれる。
それでも、頭では割り切れない感情が胸を焦がして、動揺に頭の中がざわつく。
誰かの声を聞けば、少しは頭が冷えるかと思い、弘樹に電話をかけたものの、要領の得ない会話に結局弘樹を苛立たせただけだったかもしれない。
見慣れているはずの自宅の天井が今夜はやけに高い。小さく小さく沈みこんでいく俺を遠く見下ろして、何だか見知らぬ景色に思える。
その時、玄関のインターホンがけたたましく鳴らされ、俺を強引に現実に引き戻した。
ロックを解除したドアを開けると、そこには息を切らし血相を変えた弘樹の姿があった。
「…秋彦、その、お前…電話…。」
「ああ、電波が悪くて、途中で切れて悪かった。」
「何かあったのか?」
「いや、別に。」
一人になりたくない気持ちを一言も口にしたりはしないのに、たったあれだけの電話ですっ飛んで来てくれる、人のいい幼馴染みの顔を見て、ようやく全身にあたたかい血が巡り始めるのを感じる。
「どうした、そんなに慌てて。」
「……障害物競争して来たんだよ。」
喉が渇いた、何か出せと騒ぐ弘樹に飲み物を用意しつつ、俺はなるべく感情的にならないよう抑制しながら話し始めた。
孝浩から彼女が出来たと打ち明けられてから数週間後の事、俺は新作小説のプロットがうまくまとまらず担当編集者から逃げる形で、いつものように弘樹のアパートに転がりこんでいた。
表面上は何とか平静を装える程度落ち着いたものの、事情を全て知っている弘樹の傍ではついつい弱音が溢れてしまう。
手土産代わりに持参したワインを2本空にした弘樹は変にハイテンションで、時折思案にくれて黙り込む俺に構わず、とりとめのない話を一人しゃべり続けていた。
「飲んでるか?秋彦。」
「あぁ。」
「嘘つけ。グラスの中身全然減ってねぇじゃん。」
「お前に持って来た酒なんだから、お前が飲めばいい。」
中身が残った自分のグラスを差し出すと、弘樹はそれをくいっと飲み干し、空になったグラスを乱暴にローテーブルの上に置いた。
「…そんなに、孝浩がいいのかよ。」
「……。」
「お前の気持ちも知らないで女作った男だろ。」
「お前には関係ない。」
酒が好きなわりに、あまり強くなくて、いつもならすぐに真っ赤に顔を染めて、呂律が回らなくなってしまう弘樹が、珍しく今日は酔いの回りが遅い。
いや、いつもと変わらず雄弁になって『まるで酔っているかのよう』に振る舞ってはいるが、決して酩酊状態にない事は長年の付き合いがある俺には明確だった。
「なぁ…。」
「何だ。」
「………け…よ。」
怒ったような、泣き出す前のような表情をして弘樹がつぶやく。