『心揺』



 今年、助教授としてM大にやって来たその男は、名を上條弘樹といった。
T大卒で、恐ろしく優秀。しかもまだ若く、すらりとした立ち姿と、年齢よりもずっと若く見える整った容姿に、一時大学内でも、人の入れ替わりが少なく、年寄りの研究者が多い国文学会内でもよく話題に上がった。

そんな文学会内の噂の人、上條が俺の部下としてM大に来ると聞き、俺は安穏と過ごしていた日々が多少なりとも面白くなるんじゃないかという期待と、若くして助教授の職を得た優秀な男に多大な興味を抱いていたのだ。

初めて挨拶に来た時、彼を見た第一印象は、「育ちの良さそうな青年」
話に聞いた通り、まだ学生と言っても通りそうな程若々しく、落ち着いた口調と、派手でもないが野暮でもないファッションは、誰もが知るブランド物は一切なくとも、スーツの仕立てにしろ、靴や鞄の小物にしろ、どれも良い品で、しかも彼にとても良く似合っていた。

整ったルックスと、品のいい身なり、その上まだ20代とくれば、こりゃあ女子生徒達が大騒ぎしそうだなぁ…それが、俺が上條に対して初めて抱いた印象だった。

苦労知らずのお坊ちゃんかと勝手に思い込んでいた俺の中での上條に対する評価は、一緒に働くようになってすぐに変化した。

とにかく、上にバカがつく程の努力家。
どんな小さな疑問も適当に流す事が出来ず、とことんまで追求する。その為なら寝食も忘れ、何日も大学に泊まり込み、足を使って文献や資料をかき集めて来る、その姿勢は研究者として理想的とも言えた。

彼について面白い話を聞かされたのは春から授業が始まり、すぐの頃に俺のゼミの学生の口からだ。

「とにかく冗談抜きに怖いんス。」

「隠れて携帯でメール打ってた奴、黒板消しがいきなり飛んで来て。」

「俺、漫画以外で初めて見ましたよ、授業中怒ってチョークや黒板消し投げる奴。」

「でも、そいつら皆何かしら授業に集中してなかったり、騒いだりしてたんだろォ?そりゃあ怒られたって文句言えんだろうよ。」

「それだけじゃないんですよ!怒られた奴ら全員レポート他の奴らの3倍の枚数にされて、しかも未提出だったり、内容がいい加減だったら単位をやる気は一切ないから、そう思えって…。」

「あ〜あ、俺、来たばっかの若い先生だって言うから余裕だろうと思ってとったのにな。上條の講義。」

最近は生徒からの人気を気にして、講師側から生徒にすり寄るような話もざらなのに、上條ときたら最近流行らない程のスパルタで、結果生徒達からつけられた呼び名は「鬼の上條」

いいとこの坊っちゃんで、なかなかの男前で、真面目で努力家で…そして鬼。

気がつけば、新しい部下にすっかり興味津々になっている自分がそこにいた。


そんな完璧な男、上條弘樹のイメージが崩れたのは、程なくして二人で飲みに行った晩の事だった。

学会の為の下準備で随分助けられ、その為に連続で夜遅くまで残業させてしまった侘びのつもりで大学近くの小さな居酒屋に誘う。
7席程のカウンターと、4人が差し向かうには若干狭い小さな座卓が2つあるだけのその店は旨い肴とイイ酒を出す気に入りの店で、小さ過ぎて学生が出入りしていないのも気に入っていた理由の一つだ。

そこに上條と二人、座敷の座卓で向かい合い、ひとまず学会が無事に終わった事に乾杯をした。

「なぁ、上條ってイケる口?」

「あ、大丈夫ですよ。酒は好きですから。好き嫌いも無いんで…ビールも焼酎も洋酒もワインも何でも飲めます。」

「ほう、そうかそりゃあ楽しみだな。」

「ただ…最近すっかり酔いが回るのが早くなっちゃって、寝たりしたらたち悪いんで、ほどほどにさせて下さい。」

「あ〜!分かるよ。20代前半の頃の感覚でガンガン飲んでいたら、急にガクンと足に来たりするんだよな。やっぱり年のせいか〜?なんて思ったりもしてな。」

ビールを中ジョッキで2杯飲んだ後、冷酒に切り替えて、ちびちびそれを舐めながらホッケをつついている上條は気を抜いているせいか何だかいつもより幼く見える。
酔いのせいか目の縁が少し赤く染まっていて、彼が本人の言う通り、それほど酒に強い方ではないと体現している。

「上條って一人暮らしだったよな。メシとか普段どうしてんの?」

「あー…適当です。スーパーで出来合いのモン買って食ったり、コンビニの弁当とか。」

「なんだなんだ、お前程の色男がメシ作ってくれる彼女も居ないのか。」

「居ない…ですよ、そんなヤツ。…教授はあれなんですよね、奥さん、学部長のお嬢さんだって聞きました。…料理、うまいんですか?」

「まぁ、普通かな。でも家庭料理なんてそんくらいでいいんだよ。板前やコックが作るような料理は毎日食ってたら飽きるからな。」

「そーかもしれませんね。」

「上條も早くそんな料理が上手でなくても料理好きくらいの女の子、見つけな。」

「…んー、俺はいいです。」

「彼女より今は文学!って事か?」

「いや…もう、恋愛はこりごりです。俺には多分向いてないんだと思って。」

何に関しても完璧で、そつのない男だと思っていた上條の意外な言葉に俺はふと顔を上げる。

箸の先で小さくほぐされたホッケの身を口に運ぶでもなくかき回している上條の表情は、ずいぶんと消沈していて、どうやら過去に何か悲しい恋でもした事があるのだろうなと想像させられる。

「そうか、まぁ人生そういう事もあるさ。だけどな、上條、もう恋愛はこりごりだと諦めるにはお前はまだまだ早いと思うぞ。」

 

「いや、もう、マジで・・・いいんです。十分・・・頭打ったんで。」

「へえ・・・。」

「急に黙って居なくなっちゃったんですよ・・・。連絡取れなくなって、もうすぐ1年になるかな。・・・探したら、今海外に居るらしい・・・事は分かったんですけど、要するに捨てられたんですよ、俺。」

眉間に皺を寄せながら、ため息をつく上條は、瞳をじわりと滲ませていて、大学で見慣れている姿とは別人のように、頼りなく見えた。

「そうか・・・それは大変だったな。だけど、まぁ・・・何だ、その子が居なくなってもう1年にもなるんだろう?じゃあもう、そろそろ違う恋して、スッキリ忘れちまえ。」

俺の言葉に上條は自嘲的に笑うとグラスに残った冷酒を少々自棄気味にあおる。

何も言わずに海外か・・・・。それははっきり別れを告げられるよりも辛いかもしれない。現実的に考えれば一年音沙汰なければもう終わりだろうと頭では分かってはいても、決定的なものがない分気持ちのどこかで期待し続けてしまう。
それにしても一見クールにも見えるこの男が、そんな純情を持ち合わせていたとは・・・と意外に思った。そして、この男にそこまで惚れられる娘とはどれだけいい女なのだろう、とも。

「上條にそこまで言わせる子だ。よっぽど可愛い子だったんだろうな。」

「別に・・・可愛いくはありませんよ。生意気だし、年下のくせして俺の事かわいいとか言いやがるし・・・・いつも何考えてんだかちっとも分かんなくて・・・。」

そうか、上條・・・彼女から「可愛い」なんて言われちゃうんだ。あれかな、彼女と二人の時には態度違ったりすんのかなこいつ。

「居なくなる前だって学校の課題も多いのに、バイトばっかりやってて全然会えなくて・・・だから居なくなった時も、またいつもの調子でバイトで忙しいんだろう・・・くらいに思ってたんです。」

「今時の学生にしてはしっかりした子じゃないか。忙しくてデートも出来ないくらいバイトなんて。」

「あんまり連絡ないんで、まさか無理し過ぎて倒れてんじゃないかと思って部屋に行ったら、まったく生活臭が無くなってて・・・分かった時には出国してひと月経っていました。まあ、それだけ経たないと気が付けない程度の付き合いだったって事でしょうけど。」

「その・・・海外に居るらしいってのは分かったんだろ?そんなに気になるならこっちから連絡とったりは出来ないのか?」

「それは・・・俺もプライドがあるんで。」

「ったく、変なとこにプライドついてんだなぁ。そんな引きずってぐじぐじ言うくらいなら、こっちから連絡してきっちり別れるなりヨリ戻すなりすりゃあいいのに。」

空っぽのグラスを両手でいじりながら、上條が拗ねたように唇を曲げる。酔いがずいぶんまわってきているのか、顔中真っ赤、潤みきった瞳は決壊寸前になっていて、何の恨みがあるのかといった勢いで皿のホッケを睨んでいる。

研究室では一度も見せた事のない顔。
泣き上戸なのか、みるみる涙がせりあがってくる瞳は頼りなく揺れていて・・・気がつくと座卓越しその赤く染まった頬に触れようと手を伸ばしかけて、俺は慌ててそれを引っ込めた。

俺は今、何をしようとした?

泣きだしそうな部下を慰めようと? 男の上條に?

いくら女房とあまりうまくいってないからといって、それはないだろう。しかも相手は大事な部下で酔っ払ってて・・・それに男だ。まあ下手なそのへんの女の子よりよほど美人なのは認めるが、どこからどう見ても立派に・・・男だ。

「俺がこんなだから・・・多分、あいつ嫌になって・・・・。」

瞬きと共に上條の瞳からぽたぽたと光る涙の粒が座卓の上へと落ちた。
それに堰を切られたかのように上條の頬を次々と涙がつたう。俯いたままあまりにも無防備に子供のような泣き方をする姿を見て、俺は迂闊にも「可愛い」と思ってしまった。

「かっ・・・上條!お前飲み過ぎだ!・・・な、帰りタクシー代出してやるから、もう帰れ。」

「・・・はい。・・・タクシー代は・・・いいです。家近いですし・・・歩いて帰ります。」

「えーっ・・・歩いて帰んのかよ。そりゃあ無理だ。・・・わ、分かった!俺が近くまで送ってやるから、な? もう今日は帰ろう。」

「はい。・・・すみません・・・でした。」

上條は小さく鼻をすすりあげると、おしぼりで顔を乱暴に拭いて、のろのろと立ち上がった。おぼつかない足取りに手を貸すべきか貸さぬべきか俺の中で下らない葛藤がおきる。

 

「おーい・・・大丈夫かよ。普通にべらべらしゃべってっから、油断してたなー。上條、歩けるか?」

店の外でしゃがみ込んで動かなくなってしまった上條の腕を持って、引っ張り上げるようにして立たせ、放り投げたままのブリーフケースを持ってやる。

「上條、家どっちだ?連れて帰ってやるから、頑張って案内しろ。」

何とか泣きやんでくれたものの、今度はすっかり眠くなってきたらしい上條をなかば引きずるようにして、教えられた住所を目指す。
こいつ・・・こんな隙だらけで。男だからって油断してたら、すぐにそのへんの奴にお持ち帰りされちまうぞ。
・・・・ったく・・・俺と一緒だったから良かったものの・・・。

あれ?だけどさっき俺、こいつの泣き顔にちょっとふらっとなりかかったりして、そんでもってうっかり「可愛いかも」なんて思ったりしなかったか?
・・・全然安心なんかじゃねぇよ。
オイ、上條・・・頼むからしっかりしてくれよ。仕事は完璧なくせして、何だよ、そのギャップは想定外だ。お前、鬼の上條なんだろォ・・・鬼のくせして、そんな可愛い顔して泣くんじゃねぇよ・・・。あー・・何だ・・・俺もそうとう酔いがまわってきちまってんのかなぁ。

眠たそうな顔でぽてぽてと歩いて行く上條の肩を支えてやりながら、俺は酔った頭でぐるぐると埒もあかない事を考え続けていた。

「あーここです、俺んち。ここの3階・・・・。」

本当なら家の近くまで送ったら帰るつもりだったが、エントランス横の階段で座り込もうとしている上條をとても置いて行けなくて、エレベーターに引っ張っていき3階のボタンを押す。

言われた部屋の前まで来てみると、独身一人暮らしのくせに律儀にドアの横には達者な字で『上條』と書かれたプレートが出してあって、それがいかにもこいつらしくて笑ってしまった。

「鍵出せ、おい上條。部屋にさえ無事に入ってくれたら俺の責任は果たせるんだ。その後玄関で寝ていよーが、靴のまま布団で寝ようが俺は関係ないんだからな!・・・鍵だよ、部屋の鍵・・・。」
上條はスーツのポケットからキーホルダーを何とか探しだし、鍵を鍵穴に入れようとして上手く入らないのか、乱暴にガチャガチャやってるばかりで埒があかない。

「ほら分かったから、それ貸せ。開けてやるから・・・ったくこんな手がかかる子だとはなー。お前がこんだけカワイコちゃんでなかったら、そのへんに捨てて帰ってるとこだぜ。」

ふらふらした足取りの上條を室内に引きずりこみ、靴を脱がせて部屋の奥のベッドに座らせる。壁にも床にもあらゆる処に本が積み重ねられた、いかにもこいつらしい部屋に思わず笑みがこぼれる。
文学バカってのはどいつもこいつも似たようなもんなんだな。
床を埋め尽くす本のタイトルをざっと眺めると、上條の研究に則した物からマニアックな希少本、ベストセラー作家の本までごちゃ混ぜになっていて、職業としてだけでなく元来本好きなのだろうなと窺い知れた。

「それじゃあ、週明けからは忙しくなるからよろしく頼むぞ。俺、帰るから鍵は・・・ちゃんと中から閉めろよ。」

「・・・・ハイ。ありがと・・・ざいます。」

手に持ったままだった上條の荷物を部屋の隅に置いて帰る為に踵を返したところで、途中の流しに置いてある2本の歯ブラシにふと目が止まった。
連絡無くなって1年近くにもなるって言いながら、捨てられずに置いたままなのだろうそれを見て胸が痛くなった。どれだけ忘れろ、割りきれと言っても結局うんと言わなかった上條の思いの強さを思い出して、顔も知らぬ恋人に今日のこいつを見せてやりたいと思った。

 

その日の飲みを機に、色々と上條の面白いネタを得た俺は仕事の合間合間で奴をからかって遊ぶ事がすっかり楽しみになってしまった。
最初の頃の印象通り、気難しい堅物なのは確かだが、からかうとすぐに真っ赤になって本気で怒り出す、短気で直情型で表情がくるくる変わって面白い、そんなところがすっかり気に入って、暇さえあれば奴をかまって楽しむようになった。

たまに冗談を装って、その華奢な体を抱きすくめるとセクハラだ何だと文句は言うものの、男同士のせいか警戒心もなく、やんわりとかわされる様が何だか心地良かった。

優秀な上に、美人で、その上非常に面白い。
俺はこの自分にとって初めての部下の男、上條弘樹をすっかり気に入ってしまったのだ。

 



その日、上條は来るなり朝からやたらと不機嫌だった。

いつでも時間よりはるかに早く出勤してくる男が、授業が始まる15分前に(それでもまだ余裕があるあたりが奴だなと思う)研究室に駆け込んで来たと思ったら、散々机の引き出しやら入口の引き戸やらにあたっていて、何だ何だ穏やかじゃないなぁと思いつつ、その顔を見れば、どうしたものか瞼を赤く腫らして、目の下にくっきりと隈まで拵えている。その顔のまま授業に出る気なのかと心配していたら、おもむろに鞄の中からだっさい黒ぶちの眼鏡を取り出してかけた。

「上條・・・お前・・・目ェ悪かったっけ?」

「いえ、別に・・・視力は普通です。」

「でも、メガネ・・・。」

「これは・・・まぁ顔が隠れればいいかなと。」

「確かに、ひっどい顔だな。別嬪が台なしだ・・・。どうした?それ、目元も酷いけど顔色も良くないし・・・・まあ答えたくないなら聞かないけどサ。」

「言いたく・・・ないんです。・・・・すみません。」

少し青ざめたように見える白く浮いた項。本人は気づいてないだろうが、普段こいつから感じた事のない妙な色気が漂っていて、驚かされる。
そう、これはまるで情事の余韻ーーーーーー

恋人はいないと言っていた。
少なくともこの間一緒に飲んだ、あの夜までは。

「それじゃ授業あるんで・・・行って来ます。」

メガネひとつで武装できると思ってるあたりがまだ可愛いよな。あんな泣いたのまるわかりの顔で授業に出て、鬼の上條の威厳が崩れなきゃいいけど。

上條が無造作に机の上に投げて行ったファイルの間から、何か丸めた紙のような物が机の上に転がり落ちた。ゴミならば捨ててやろうと手に取り、何気なく開いてみたそこには、ただ一言『行ってきます 野分』とだけ書かれている。
何かの暗号のようなそのメモを捨てていいものか、このまま置いておくべきかしばらく思案した挙句、ファイルの間に再び押し込んでおいた。

上條も上條で何やら大変そうだが、俺自身もつい先日生活が大きく変わったのだ。
前々から上手くいってなかった妻と正式に離婚した。妻に他に男がいる事は最初から承知していたし、お互い干渉し合わないドライな関係でも維持出来ればそれでもいいと思っていた俺とは違い妻はそんな無意味な暮らしに決着をつけて出て行く事に決めたらしい。優柔不断な俺とは違って、はっきりした妻らしい結論と言えばそうなのかもしれない。
文学部長の娘だった事もあって、学部長からは必要以上に気を遣われ、手続きだの各方面への謝罪や挨拶だのという雑務に追われ、疲れて自宅に帰れば中途半端に物の減った空虚な部屋が待つばかりで、正直気分が塞ぐ。
妻に対して未練などという感情はもうカケラも無かったけれど、それでもこの年になって、一人になるのは正直寂しかった。

何だか上條も元気ないみたいだし、帰ってもメシは無いし、今夜は上條誘って飲みにでもいくかな。多少酒が入ればあいつも話しやすくなるだろうし・・・。

 


上條が泣きはらして来た日から数日が経った。

あれからずっと上條の機嫌は悪いままで、もともと学生から恐れられていたものが、さらに迫力が増しているようで廊下ですれ違いざまに避ける学生を見かけた程にここ最近の奴のオーラはヤバイ。

先日飲みに行った日、それとなく聞いてみても「何でもないです。」の一点張りで、結局不機嫌の理由も涙のワケも分からないままで。
ただ途中で一言「俺・・・今のところ引っ越そうと思っているんです。」と言ってたのは聞いた。学生の頃から住んでいる今のマンションはそろそろ手狭で、もうこれ以上本を置くスペースが無いから、とか何とか言ってたかな。
帰って来ない、連絡もない恋人を待ち続けていたらしいあの部屋を出て行く事に決めたのなら、やはり何か心機一転したくなる出来事があったのかもしれない。
それがアイツにとっていい事ならいいんだけれどな。

まあ、今朝から眉間に深々と刻まれたあの皺を思い出すと、楽観的観測もしにくいか・・・・。

 


途中で切れてしまったコピー用紙を取りに倉庫に行って、戻る途中でその声が耳に入った。
最初は学生でも騒いでいるのだろうと思ったが、それにしてもただ事ではなさそうな様子が気にかかる。

「ヒロさん!開けて下さい!!・・・ヒロさん!」

上條の研究室の扉の前あたりで、何やら騒いでいる男がいるのが廊下の向こうから見てとれ、俺は足早にそちらへと向かった。
何だ、あいつ学生か?
長身で細身ながらがっちりとした肩、まるでモデルみたいな体格のその若い男は、上條の研究室の前で必死に扉を開けようと手をかけながら、繰り返し同じ名前を繰り返している。
ヒロさん・・・? 上條って、下の名前・・・ああ弘樹だったか。
知り合い? でもだとしたら、こんな所で何を揉めているんだろう・・・。

「何だ、何だ・・・大声だして・・・・騒がしいな。うちの学生?」

多分違うだろうと思いながら、そいつに声をかける。
こんな背が高くて目立つ子だったら記憶に残らないはずがない。

「いえ・・・すみません、失礼します。」

ふと踵を返し、そのまま立ち去ったその男は、そのへんの学生と変わらない年頃で、なかなか整った精悍な顔立ちをしていた。

研究室の扉を開けると、上條は真っ赤な顔で床に座り込んでいて、今にも泣き出しそうな顔で俯いていた。
その顔を・・・表情を見て、俺は何もかもを悟る。
上條が一年近く、待っていたのは可愛い彼女なんかではなく、おそらく・・・さっきの、あの男なのだ。何日か前からあきらかに様子がおかしかったのも、きっと彼と何か揉めていたせいなのだろう。
もし本当にそうなのだとしたら、どれだけ「相談にのるぞ」と促しても悲しそうに笑うだけで何も話そうとしなかった理由も分かる。

「何だお前、ものすごい顔してるぞ。・・・言ったろ、眉間にシワ寄せんなって。せっかくのカワイコチャンが・・・。」

廊下から視線を感じて振り返ると、さっきの男が唖然とした顔で立ち尽くしているのが目に入った。
そんな顔してこっちを見てたって無駄だ。上條が会おうとしないのならば、悪いがそれが君に下された答えなのだろう。
恋人に黙って海外に発ち、何の連絡もしないまま長い間放置し、散々泣かせておいて・・・帰国した途端、よりを戻そうと追い回している・・・といったところか。

怯えたように床に沈み込み顔を両手で覆ってしまった上條は小さく肩を震わせていて、俺はかける言葉もなく、その痛々しい姿を見つめている事しか出来なかった。
時間が経つ毎に、さっき会った男が憎らしくなってくる。
俺の、可愛い部下を泣かせやがって。
こんどノコノコやってきたら、門前払いにしてやろう。

「すみません・・・騒がせました。」

上條がゆっくりと顔を上げる。
目がずいぶん赤く充血しているが、かろうじて泣いてはいないようだ。胸ポケットからメガネを出してかけると、ゆっくりと立ち上がり、スラックスの膝や腰のあたりを手ではたく。

「最近すっかりそのメガネ定番になっちゃったな。まあ、それでも女生徒からは『上條センセイのメガネ姿かっこいい〜』なんて騒がれてんだろ?いいねぇ、いい男は。」

「どーでもいいです。」

「・・・ま、もう一息だし、資料揃えんの手伝ってくれよ。かみじょー居なかったら絶対終わりそうにないしさー。」

「あーハイハイ。分かりましたからさっさとコピー終わらせて下さい。終わった分から纏めてホッチキス留めていきますから。」

何事も無かったかのように振舞う、上條の様子に少しほっとさせられる。
仕事は仕事としてケジメ持って切り替えられるのであれば、プライベートで何があろうが干渉するつもりはない。




昼前くらいだったか、俺が研究室の電話を取ると上條宛ての外線だった。

『ヒロさんですか? 野分です。あの・・・。』

「はい?」

『あれ? あ、スミマセン上條助教授お願いします。』

「あーちょっと今、席はずしていてね。伝言なら伝えますが。」

『・・・・あ。はい、じゃあお願いします。草間野分ですが、携帯に連絡もらえるよう伝言お願いします。』

「はい、じゃあ伝えておきますー。」

電話を切った途端、上條が部屋に戻った為、さっきの電話の内容を伝えようと口を開きかけ、俺はそのまま口をつぐんだ。
何故なら、電話を切ってから気がついたが、俺はその声に聞き覚えがあった。多分間違いない、さっきの電話は今朝ここで騒いでいた上條の男だ。

伝言ーーーー伝えるべきなのか。

「ああ上條、今な・・・・。」

いや、ようやく上條も落ち着いてきてるんだ。これ以上かき回して動揺させる必要はない。

「・・・・・・・・。」

「何です?教授。」

「いや、何でもない。」

くさまのわき・・・ねぇ。・・・のわき?・・・台風?・・・変わった名前の子だな。つか、どっかで聞いたか見たかしたような・・・。
そこまで考えて、数日前に上條の机の上で見つけたくしゃくしゃにされたメモ用紙の事を思い出した。
『行ってきます 野分』
・・・誰と何処に何しに行くのか、さっぱり分からなかったあのメモ。
あれがそうか。

あの日、上條は情事の名残りをぷんぷんさせたまま仕事にやってきた。ぎこちない歩き方、散々泣いたのだろう、真っ赤に瞼を腫らして・・・。
あの日の上條の表情から、待ち望んだ恋人に抱かれた幸福感を覗う事は出来なかった。むしろ何かに打ちひしがれたかのような・・・・諦めや、絶望・・・そして確かあいつはその後すぐに部屋を引っ越している。携帯電話の番号も変えたはずだ。
どう推理してみても、野分という男に同情してやるような材料は見つからなかった。

 

 

 

「すみません。教授・・・今日、俺約束があって。もう帰ろうと思うんですけど・・・教授は今日も遅くまで残られるんですか?」

「あ、いーよ、気にすんな。上條約束あるんだろ?いい、いい。早く帰んな。」

「じゃあ、本当にすみません。失礼します。」

ひどくそわそわした様子で、いつもよりも早く机の上を片付け、研究室を飛び出して行った上條の背中を俺は見送った。

あれだけ逃げ回っていたくせに、彼氏との待ち合わせ場所に・・・行くんだな。

上條の恋を応援してやりたい気持ちと、壊してしまいたい気持ちとが胸の中で渦巻く。壊す・・・? 壊してどうするんだ。いや・・・俺は、上條がもうあんな風に泣く姿を見たくないだけで・・・・。

コーヒーを飲もうと立ち上がり、サイフォンのサーバーを手に取るが、もうろくにコーヒーは残っておらず、小さく舌打ちをしてコーヒーを淹れなおす事にした。
今夜もこのままだらだらとしているうちに、帰りは遅くなりそうだ。離婚する前はそんな残業に多少は罪悪感を感じたりもしたものの、独り身になってからは、むしろ一人の部屋に帰りたくなくてついここにだらだらと長居をしてしまう。
今日はそれに根気よく付き合ってくれる可愛い部下も居ない。

コーヒーを抽出するコポコポという音を聞きながら、ふと窓の外に目をやるといつの間にか雨が降り始めていた。

上條・・・傘持ってったかな。

まあここを出て行ったのはずいぶん前だし、とっくに合流してどこかでゆっくり夕食でも食べていたりするのだろう。

ちゃんと仲直りできてるといいな。何しろあんなに待ってた相手なんだ。

あんなにがむしゃらな恋を羨ましく思いながら、自分にはとうてい無理だなと嗤う。
あの人を失くして、それきり凍りついたこころを妻でさえ壊す事が出来なかった。いや・・・壊すどころか触れさせすらしなかったのは自分で・・・。
短い結婚生活だったけれど、きっと自分は無自覚のまま妻を傷つけ続けてきたのだろう。

そんな自分に人を愛する資格など、もう無い。

  ◇ 続く ◇



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