『魅惑』  前編



病院での当直と、急患が重なって、2週間も家に帰れなかった野分から『今日こそは絶対に帰りますから。』とわざわざ電話までかかって来た事もあって、久しぶりに顔が見られるのなら、と遅くまで起きて待っていた弘樹は、玄関のドアを開けた途端、ショックに固まってしまっていた。


「夜分、すみませ〜ん。」


帰って来た野分の横には、弘樹が苦手な野分の先輩医師、津森がニコニコしながら立っていた。


「すみません、ヒロさん。帰ろうとしたタイミングで俺の担当の患者さんの容態が急変して、先輩も一緒に残って手を貸してくれたんです。そんなこんなしていたら、終電終わっちゃって。」

「いえね、タクシーで帰っても良かったんだけど、野分の家引っ越してから病院にも近くなったし、野分も是非泊まって行ってくれってしつこいんで。」


「俺、何も言ってません。」


玄関先でベラベラしゃべり続ける津森の隣で突っ立っている野分をぎろりと睨み付けると、弘樹は黙ってリビングダイニングへときびすを返した。

黙っているという事は一応OKなんだろう、と判断した野分は津森を室内へと招き入れる。


部屋に入ると弘樹はムッとした表情のままコーヒーメイカーをセットしていて、カウンターの上にはちゃんとカップが3つ用意されてあった。


「上條さん、遅い時間に急に伺って、本当に申し訳ありません。お休みのところだったんじゃないんです?」


「……。」


弘樹はすでに風呂にも入っており、寝間着姿の上に薄手のカーディガンを羽織っている。


生成のパジャマもラベンダー色のカーディガンも色白の弘樹によく似合っていて、以前見た姿と自宅での姿はやっぱり印象が違うんだなと津森は考えていた。


「あ、どうぞお構い無く。今夜泊めてさえもらえればいいだけなんで。この間みたいに床でも全然平気だし寝られますから。」


床に泊まるという話を聞いて、思い出したくない過去が蘇ったのだろう、弘樹は眉間に皺を刻んだ心底嫌そうな顔で、ようやく口を開いた。


「…来客に床で寝てもらう訳にはいきませんから。」


「心配してもらわなくても大丈夫っすよ。こういう仕事してると体力勝負なんで。」


「じゃあ先輩、俺の部屋のベッド使って下さい。」


「悪いな。…じゃ何、お前は上條さんの部屋で寝んのか?」


不機嫌この上ない顔で、客人にコーヒーを出した後、まるで明後日の方を睨んでいる弘樹の方をちらっと見やりながら、野分は大きな体を縮めて、『俺はソファで寝るからいいです。』と言った。


結局、津森には野分の部屋のベッドを使ってもらう事にして、野分は弘樹のベッドに寝る事となった。


弘樹のベッドはもともと大きめで、二人が寝所を共にする時にはたいていこっちを使っているのだから特に問題は無いのだが、2人がそういう意味で付き合っていると知っている津森の手前、同じベッドで眠るのは我慢ならない。でも何日もハードな勤務が続いて完全にオーバーワーク状態の野分を狭いソファや床で寝かせられない。だからと言って、津森のせいで自分がソファで寝るのは冗談じゃないぞ、と考えた上での結論だったが、2人で寝ると告げた時に津森から含んだような顔でにやにや笑いをされて、弘樹はますます臍を曲げてしまった。


風呂から上がった野分が部屋にやって来ても、弘樹は布団に顔まで埋めてベッドの端っこの方に背中を向けたままで、動かない。


「ヒロさん、まだ怒ってるんですか?」


濡れた髪の毛をタオルで拭きながら、話しかける野分の問いにも応えはなかった。


「ヒロさんが先輩の事を苦手なのは分かってるのに本当にすみません。でも、承知してもらって助かりました。」


「…別に、アイツが嫌いだから怒ってるんじゃねぇ。」


布団からはみ出した、茶色い髪の毛を指先でそっと撫でながら、野分はかがみ込むようにして、布団にくるまった弘樹に顔を寄せる。


「何日ぶりだと思ってんだよ。」


「え?」


「何週間も帰って来なかったクセして、やっと帰って来たと思ったら、連れも一緒ってどういうつもりだよ。」


「……それって、ヒロさんも今夜は二人きりでいたいと思ってくれてたって事でしょうか。」


「ば……っか。…誰がそんな事…!」


布団の隙間から覗く、弘樹の耳が真っ赤に染まる。


「俺も…会いたかったです。ヒロさん。」


ゆっくりと布団を剥ぎ取ると、仰向けに横たわり無防備な姿を晒した弘樹が野分をじっと見つめ返してくる。


「…ヒロさん。」


パジャマの上から肩を抱き寄せ、唇を重ねると自然と薄く口が開かれ、野分の舌は誘われるように口腔へと分け入った。

キレイに並んだ歯列を舌先で撫で、緩く開かれた上下の歯の間に舌を割り込ませる。

舌先が弘樹の甘い舌にぶつかると、そっと応えるように絡みついて来た。

口づけが深くなるごとに互いの唾液が混じり合い、溶け合う。

ちゅっ、ちゅと甘ったるい音をたてて、軽く舌を吸い上げ、何度も角度を変えながら、柔らかい唇をじっくりと味わいつくした

弘樹の息があがる程、長くて深い口づけをしながら、パジャマの脇腹から手を差し入れて来た野分の指先を慌てて弘樹が制する。


「バカ野郎。何考えてんだよ…。今日はダメだ。」


「えーっ。2週間ぶりなのにィ。」

「お前のせいだろ。」


「…先輩だったらもう寝ちゃってますって。昨日も殆ど仮眠とれずに完徹状態のまま救急外来受けてたんですから。」


「それでも嫌なもんは嫌だ。絶っー対ダメ、無理。」


上から覆いかぶさって来る野分の胸を押し返そうと肘を立てる弘樹に構わず、再び強引に唇を塞ぐ。


そして、胸や肩を押して抗う手を掴むと、熱の在処へと導いた。


「や…なっ、何触らせてんだよっ。テメェ。」


「ヒロさんにキスしてたら我慢出来なくなっちゃいまして。」


「こン…の…変態!時と場所を考えろ。」


「大丈夫、先輩にはバレないようにしますから。」


「…俺が無理だ!」


「ヒロさん、夢中になってきたら声押さえられませんもんね。」


「………!」


みるみるうちに顔全体を真っ赤に染めた弘樹が、無言で野分の脇腹を蹴りあげる。


「痛いっ…ヒロさん、痛いですって。」


「お前、やっぱり床で寝ろ!!」


野分の体の下から逃れようとジタバタ暴れる弘樹を軽々と制しながら、野分は悪戯っ子の表情で微笑む。

◇◇◇◇◇◇

野分のマンションに泊まるのは2度目だったが、前回は同居人の上條が留守の間の事で、上條の在宅中に泊まるのは初めてなんだよな…と津森は野分のベッドに横たわりながらふと考えた。


二人が男同士でありながら恋人関係にあるという事は暗黙のうちに承知していたし、おそらくセックスもしているんだろうな…という不粋な想像もつく。


本来なら隠してしかるべき男の恋人を、事あるごとに自慢し、彼がいかに可愛いかを切々と語る野分の様子を毎日見ていたし、からかうつもりで上條の目の前で野分にちょっかいをだして、怒った上條から思いっきり殴られたのはつい最近の事だ。


野分より年上で、有名大学を大学院まで出た後、20代にして大学助教授をやっているという優秀な大人の男が、どこまで本気で年下の研修医と付き合っているんだろう、と不思議だったが、病院での襲撃事件で、彼自身もずいぶん野分に惚れているのだと分かった。


先ほど見かけた寝間着姿の上條を思い浮かべる。

どうやらすっかり嫌われてしまったようで、津森に対する視線は冷たいが、ふとした瞬間に見せるどこか幼さの残る表情は保護欲をそそられたし、全体的に色素が薄いのか茶色い髪はサラサラと柔らかそうだし、琥珀色の瞳はじっと見ていると吸い込まれそうだ。



自分は決してゲイではないし、男性をそういった目で見た事などこれまで無かったが、上條のパジャマ越しでも分かるほっそりとした腰を見た時、これが野分を虜にしている躰か…などと考えていた自分に驚かされる。


ここに来るまで、疲れの為に眠くて眠くて仕方なかったのに、ベッドに横になった途端、すっかり目が覚めてしまった。


初めて通してもらった野分の部屋は、ものすごくシンプルで、あまり生活感というものを感じられない。


セミダブル程度の簡易なベッド、机、タンス、本棚。

本棚には専門書とテキストが並び、趣味が伺えるような本も雑誌も見当たらない。

という事は、リビングの本棚に並んでいた小説や部屋のあちこちに置かれていた書籍は上條の趣味か。


普段、病院で会う野分は生真面目で、穏やかな性格で、人当たりがいいので誰からも好かれるタイプだ。

小児科に入院中の子供達はもちろんの事、子供達の保護者からも慕われているし、病院の上司や教授からの受けもいい。

その上、看護師や病院に出入りする業者の人間、病院の中庭に飛来する鳩や雀からも好かれていて大したものだなと感心させられる。


だけど、そんな誰からも好かれる爽やかな好青年は、年上の男の恋人に夢中で……。

しかも、その事実を知っているのは病院内では自分一人なのである。


普通に可愛い女の子と付き合って、何年かしたら結婚もして…優しい父親になるだろうと安易に想像が出来るだけに、野分の選択は納得出来ないと思った事もあったが、今日野分と共にこの家に帰って来た時、何だか不思議と腑に落ちる気がしてしまったのだ。


ドアが開けられた瞬間の上條の何とも嬉しそうな表情。

それはすぐにかき消され 、俺のせいで嫌そうなしかめっ面に変わってしまったのだけれど…。


食器棚に並べられたお揃いのカップや皿、2人が醸し出す日常の空気はごく自然な夫婦や恋人のようで、胸が締め付けられた。


◇◇◇◇◇◇


「野分…いい加減にしろって……。」


並んで横になったまま、背後からすっぽりと抱き枕よろしく抱き締められ、弘樹は自由にならない体を必死に身じろいだ。野分が呼吸をしたり声を発する度に背後から耳元や首筋に温かい息がかかり、絡められた下肢も、太股や腰まわりに押し付けられる野分の隆起したものも、どうにも堪らなくて。


「ダメですって。俺、静めようと努力してるんですから。そんな切ない声聞いたら逆効果です。」


「バカ。だったらもう少し離れるとかしろよ。尻に当たってんだ!絶対わざとだろ!」


「……ヒロさんのお尻、気持ちいいです。」


「この変態!離せ!俺やっぱりソファーで寝る。」


「大きい声だしてたら先輩に聞こえちゃいますよ。」


妙に楽しそうな野分に言われた途端、弘樹は口をつぐんだ。

変に騒いで津森を起こすのは本意ではない。


「ヒロさん…欲しいです。」


耳元で囁かれて、体がびくんと跳ねる。


「静めようと思えば思う程、ヒロさんの事で頭がいっぱいになっちゃって…。」


パジャマ越しに感じる野分の熱はもうはち切れんばかりで、押し付けられたり、擦られる度に堪らなくなって弘樹はギュッと目を閉じた。


「ヒロさんだって感じてるんでしょう。…触ってないのに勃ってきてます。」


「さわ…んな……。」


後ろから抱く野分の手が弘樹のパジャマのズボンの中へと忍び込む。

野分から言われるまでもなく、燻るように体は火照ったままで、直接触れた野分の手の感触を待ち望んでいたのは確かで。


「…じゃあ、俺も触ってやるから、今夜はこれで我慢出来るか。」


布団の中で体を捩って、弘樹は自分も野分のパジャマの下と下着を一緒に膝まで引きずり下ろすと固くなった野分自身を握り込んだ。


布団に隠れた恰好で向き合い、お互いに高め合う。


ベッドの脇に置かれたチェストの引き出しから手探りでスキンを取り出し、野分に手渡すと、野分は片手の動きを休ませないままに器用に歯を使って袋を破ると中身を取り出し、手の中で徐々に勃ちあがっていく弘樹のものにあてがった。


「ん…いい、自分で…。」


「俺にさせて下さい。…ほら、ヒロさんは俺のから手を離してちゃダメですって。」


遮ろうとした手をやんわりと制して、文句言いたげな唇を塞ぐ。


野分は手の中の愛しい人のものに丁寧にスキンを被せると、自分のものにも片手で素早く装着する。


「本当は直接触りたいんですけど、今日は夜中にシャワー行ったりしにくいし、ヒロさんのベッドを汚さない為にも、この方が……。」


「うるさいぞ。やる気無くなったんだったら俺はもう寝る。」


「ヒロさん、大好きです。」


弘樹は声が漏れるのを恐れてか片手で野分のものを扱きながら、もう一方の手を顔の前に持ってくると、親指の付け根あたりにそっと歯を立てた。

それでも野分の指の動きに煽られる度、喉の奥でくぐもった声を洩らす。



◇◇◇◇◇◇


部屋のドアを開けて静かにリビングへと移動する。

いい加減寝ないと明日が辛くなると分かっているのに、色々考え過ぎて完璧に頭が冴えてしまった。


リビングに面した向こうに上條の部屋のドアが見える。





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