『新月』 |
「上條ー!!・・・さっきそこで、面白い噂聞かされて・・・さ・・・・。」 いつもの事だが、ノックもそこそこに俺の研究室のドアを突然開ける宮城教授が、こちらを見て一時停止みたいに動きを止めた。 「へー・・・どんな噂ですか?」 「・・・・鬼のかみじょーに、隠し子発覚・・・・だって・・・。」 宮城教授はあっけに取られた顔で、俺が腕に抱いてあやしている赤ん坊を凝視している。 「・・・すみません。職場に連れてくるのは良くないって思ったんですけど、置いたまま仕事に行く訳にもいかなくて・・・。授業の間は知人にここで見てもらう約束していますから。なるべく迷惑かけないようにしますので・・・しばらく大目に見てやってもらえませんか。」 「いや・・・別に何の迷惑も・・・ないけどさ。ところでこの子、本当に上條の隠し子?」 「別に隠してる訳じゃありませんけど・・・まぁ他人からの預かりものとかではないです。」 「えーっ・・・それどういう意味だよ。うん、でもあまり似てはないよなぁ。髪の毛真っ黒だし、瞳も真っ黒・・・。可愛いなぁ、何か月くらいだ。」 「どうなんでしょうね・・・俺はそのへんよく分からないんで聞いてみたら、首も据わってるし生後4ケ月か5ケ月か・・・・そのくらいなんじゃないかって話です。」 「まあ、どういう事情かは知らないけどさ、いいよ赤ん坊連れてくるくらい。何なら背中に背負って授業するか?上條センセイの意外な一面を見れてファン急増するかもなー。」 教授の軽口に笑って受け答えしながら、赤ん坊の額にかかって汗で貼りついた前髪を指の先でそっとかきわけてやる。 今朝、目が覚めた時、一緒に眠った野分が居た場所にこの子が寝ていた。 俺は野分を抱いたまま、その場で携帯で秋彦を呼び出し、家に来る途中に赤ん坊の着替えやミルク、哺乳瓶などの道具、紙おむつなどを用意してもらえるように頼んだ。 これまで姿が変化しても中身は変わらなかった野分も、とうとうこの姿になってしまってからは会話が出来なくなった。発音が出来る程口腔が発達してないんだから仕方がない。本人こうしていても色々言いたい事はあるだろうが、諦めてもらうしかなさそうだし。 しゃべれはしないものの、抱っこしていると野分は必ずじっと俺の顔を見つめていて、その真っ黒でつぶらな瞳を見ていると今でも俺は奴に見守られているんだなと感じられる。 言葉を失くした事で、俺達はより近く寄り添えるようになったのかもしれない。
「苦手ですよ。言葉は通じないし、急にでっかい声出したり、泣いたりで行動の予測がつかないし・・・。」 「・・・・それ、そのまんま上條みたいだな。」 「教授、それどういう事ですか・・。」 俺だって自分で自分が不思議でならない。 「それにしてもあれだな。」 「何ですか。」 「そうしてる姿が意外と似合ってる・・・っていうか・・・いいな美人は何でも様になって。いい母親に見えるぞ。」 「・・・・せめて父親と言って下さい。」 思えば・・・この当時の野分はすでに親から棄てられ、施設で育っていたはず。普通の家庭で育った俺には正直想像がつかない事だけれど・・・どれだけ愛情をそそがれていたとしても、寂しかったんじゃないのかとどうしても思ってしまう。 野分は、今朝秋彦達が買ってきてくれたスリングとかいう布のハンモックの中にすっぽり包まれて俺の胸にぴったりとくっついて抱かれている。 「ん、誰か来たぞ。」 部屋の扉がノックされ、俺が扉を開ける。 「上條先生、大丈夫でした?」 「うん。何とか・・・高橋に一通り教わっといて助かった。ありがとうな。」 「俺、今日もう授業終わりましたから、先生の手が空くまでここでこの子見てます。ウサギさんにもそう言って来たし。」 「助かる。・・・この部屋にある物は自由に使ってもらっていいから。・・・この礼に、いつでも勉強だったら見てやるぞ。」 「あー・・・それはいいです。」 ちょっと離れがたい気持ちを制しながら、野分をスリングごと高橋の手に預けた。 「重いだろうし、高橋はずっと抱いてなくていいから。そこのソファとかに寝かせておけばいいし、必要そうならここにもベビーベッド借りるか。」 「それはそうかもしれませんね。ずっと抱っこしてたんじゃ上條先生、仕事出来ないでしょう。後で、俺、業者に電話しておきます。」 俺達の様子を面白そうに横で眺めていた教授が、高橋の腕の中の野分を覗き込む。 「こいつ、他の人間が抱いてる時もずっと上條の事、目で追ってるのな。」 教授の言葉に野分の顔を振り返ると、奴はニコニコと俺に向って笑いかけていて、その笑顔にいつもの野分の人懐っこいあの笑顔が重なる。 こんなに小さくても、やっぱり野分なんだな。
帰って来て一番に野分にミルクを飲ませ、奴をリビングに移動させたベビーベッドの中に入れて、ワイシャツのまま袖を捲り上げて米を研ぐ。ちらりとベビーベッドの方に目をやると、やっぱり寝たままの姿勢で顔はこちらに向けていて、目が合うとニッコリと笑われた。 「ちょっと待ってろ。とりあえず米研いでスイッチ入れとかないと、いつまでたってもメシ食えねぇからさ。」 じっと見られていると妙に気になって、俺は濡れた手をタオルでふきながらリビングに戻ると、じっと俺を見つめている野分の顔のまわりに、秋彦が買ってきたクマやパンダのぬいぐるみを並べて置いておいた。 秋彦の奴、この赤ん坊が野分だって分かってるクセして玩具やぬいぐるみ山ほど買って来やがって・・・絶対何かの嫌がらせだ。 炊飯器のセットが終わった俺はようやく一息ついて、着ていたワイシャツを脱いで部屋着に着替えることにする。 履いていたスラックスを皺にならないようにハンガーに吊るし、ワイシャツはクリーニングに持って行く紙袋に突っ込む。 部屋着のラフな服に着替え終わった俺は、ようやくベビーベッドの中の野分を抱きあげ、ソファに腰をおろした。 ソファにそのまま横になり、胸の上に野分を乗せて、ずりおちないように手で背中とおしりを支えてやる。 「はは・・・変な感じだなー。お前が上に乗ってても、全然圧迫感ねーし、何しろおかしな気分にはならねぇ。」 俺の胸にぺったりと顔をくっつけて、嬉しそうな野分を胸に抱きしめ、天井を仰ぐ。 今、俺が居なければ野分は生きていけない。 命も体もまるごと預けられる事に少しプレッシャーを感じたりもしたけど、それが多分今の俺を支えてくれている気がする。 ずりずりと胸の上をずり上がった野分が俺の頬に自分のほっぺをくっつけてきた。すべすべした感触を楽しみながら、柔らかい髪の毛を撫でる。 このソファで、俺達何度抱き合っただろう。 そして今も俺達は、ここで抱きあっている。 互いの体温の心地よさを感じながら、今も傍にいられる事を感謝した。
野分が休職届けを出してから10日以上が経っていた。手続きに尽力してくれた津森に今日久々に会う約束をしている。 野分が休んでいるせいで人手が減って、ますます忙しくなってしまったらしい津森はなかなか時間が取れなくて、結局病院で会う事にした。津森の決して長くはない休憩時間に、小児科の談話室で待ち合わせる事に決めた。 「すみませんねぇ、上條さん。ずいぶん待たせちゃったんじゃないですか?」 いつもと変わらない様子でヒラヒラ手を振ってこちらへ歩いてくる津森がギョッとした顔を一瞬した後、すぐに笑顔に切り替えたのが見てとれた。 「まさか・・・と思うけど、やっぱり・・・その子は・・・あいつなんスか?」 「・・・ああ。あれから1週間くらいでまた小さくなって、この姿でもう5日になる。」 津森はさすがに少し神妙な顔をして、俺に抱かれた野分の頭を優しく撫でた。 「俺も野分も分かってる事だからはっきり言うけど、こんな状況だ・・・こうやって顔を合わせる事も・・・次は無いかもしれない。」 「・・・・上條さん。」 「あんたには何だかんだ言っても、野分が世話になったからさ・・・会えるうちに、礼をしたくて。」 「そんな寂しい事、言わないで下さいよ。まだそんな最悪の結果になるとは限らないんだし・・・。」 「俺だって、そんな事考えたい訳じゃない。」 「上條さん、俺はもちろん野分の事も心配だけど、それ以上にあなたの方が心配なんですよ。」 「何で・・・俺は別に・・・。」 「あれだけ感情の起伏の激しいあなたが、少なくとも俺の前では、とても落ち着いていて、気丈なのが返って心配なんス。・・・万が一野分を失ったりした時、上條さんがその反動でおかしな事考えたりしなきゃいいんだけど。」 津森の言葉に、腕の中の野分がぎゅっと俺の服の胸元を掴む。 「・・・俺はそんなに弱くねぇ。野分を不安にさせるような事は言わないでやってくれないか。」 そっと宥めるように、野分の背中をポンポンと軽く叩きながら、俺は津森の目を真っ直ぐに見返した。 「そっか、これだけ小さくなっちゃってても、アイツの意識残ってるんですか。何か、なおさら悲しいっスね・・・。」 「・・・俺は・・・感謝してる。どんな形でもいい。アイツがこうやって傍に居てくれるだけで・・・どんだけ心強いか。」 俺達を見つめる津森の目は、今まで見た事がないくらい優しくて、真剣で、俺は少し奴の事、誤解していたのかもしれないな・・・と思う。 「とにかく、上條さんも野分も、決して自分達だけで抱えこまないで下さいよ。俺、おたくらの事、これでも気に入ってて応援したいって思ってるんですから。」 同じような言葉を、秋彦達からも教授からも言われた。 どんなに愛し合っていたとしても、戸籍上で家族になれる事もなく、同性同士のカップルに偏見の強いこの国で、これだけ味方になってくれる人がいる俺達は、恵まれているのだろうな・・・と思う。 「それに俺、我ながら楽観的だなと思うんだけど、信じてるんですよ。野分は必ず帰ってくるって。あの男があなたを置いてどこにも行けるはずがない、とも。病棟の子供達だって、草間先生が元気になって戻ってきてくれるのを信じて待ってんスよ。」 津森は俺の腕の中から野分を抱きあげると顔を近づけ、こう言った。 「こんな格好でも、俺のカワイイ後輩なんだろ。だったらよく聞け。自分でどうこう出来ない運命だなんて思ってねぇで、死に物狂いでこっちに戻って来い。お前が何より大事にしてた人悲しませてんじゃねーよ。それと、お前が築きあげてきた信頼、知識、技術どれも無駄にすんな。分かったな。」
看護師に呼ばれて仕事に戻って行った津森と別れ、帰路を辿りながら津森に言われた言葉をひとつひとつ思い出してみる。 ・・・野分を失う・・・か。 野分が居なくなってしまった世界で俺がどうしているかだなんて、想像出来るはずもない。 だって腕の中にいるコイツは小さくてもこんなにあたたかくて・・・俺はいつでも抱っこしながら抱きしめられているような、包まれているような、そんな愛情を確かに肌を通して感じられているから。
辺りはもう薄暗くなり始めていて、近くの幹線道路を走る車のライトが腕の中の野分の頬を白く照らす。病院を出てからずっとあまりにも動かないから、眠っているのかと思った野分はじっと俺の顔を見上げていて、ふと立ち止まってスリングをかき分け顔を出してやると、俺の手のひらにそっと頬を擦り寄せてきた。 「野分。」 お前の『ヒロさん』って呼ぶ声がもう一度聞きたい。 「野分・・・。」 俺の呼ぶ声に応えるように、繰り返し手のひらに頬ずりをする野分をスリングごとぎゅっと抱きしめる。鼻をくすぐるミルクの甘いにおい。 もう・・・言ってやれなくなるかもしれないのにな・・・こうなってもまだ俺は野分に素直な気持ちを伝えてやれない。 野分、野分、野分、野分・・・・・・・ こんなにお前はあったかいのに、もう数日で消えてしまうんだろ。 「野分、行くな・・・・。」 その時、ぎゅっと抱いた腕の中で、野分が俺の頬をぺろりと舐めた。 「野分?・・・何だよ。くすぐってぇ。」 辺りが暗くなっていくにつれて、近くの店の看板、街灯、などがぽつぽつと灯り始める。 |
4/1〜5/20 |