『新月』


津森を訪ねてから、3日が過ぎた。

持ち帰った仕事の最後のひとつ、今日やった抜き打ちテストの採点を終えた俺はリビングの床で大きく伸びをした。
壁の時計を見ると、すでに11時をまわろうとしている。
リビングに置いたベビーベッドの中で、ちょっと前までうとうとしながら頑張って起きていた野分もうつ伏せでおしりを上げた格好で熟睡していて、可愛くて思わず笑いが洩れる。

すっかり冷めてしまったコーヒーを啜りながら窓の外を見ると、今夜は月が見えない。
雲が出ている訳でもないのにな・・・と思いながらカーテンを引いた。

明日も朝から講義がある。
講義の間は野分は高橋が見ていてくれる事になっているから、着替えとミルクの用意をしなくちゃ・・・と考えながらも、気持ち良さそうに眠っている野分の寝顔を見ていると猛烈に眠気が襲ってきて、支度は明日でいいか、とベッドの中の野分を抱きあげた。

自分のベッドの真ん中に野分をそっと下ろしてから、リビングに戻りベビーベッドを押して寝室へと移動させてくる。
そしてそれを自分のベッドにぴったりとくっつけると、再び野分を抱きあげ、起こさないようにゆっくりとベビーベッドに下ろした。

ベッド同士の境目の柵は下ろしてあるから、こうしていれば野分の寝顔はすぐ自分の顔の隣にある事になる。

数日前から不安な為か、夜中に繰り返し目が覚めてしまう。その度に怖々と隣に眠る野分の姿を確認し、そしてまた安堵して寝なおす・・・という事が朝まで幾度となくあって、少々寝不足気味だった。
その分、昼間は安心していられるから、高橋に甘えて研究室のソファで少し眠らせてもらう事もあったが、高橋は『赤ちゃんと一緒だとやっぱり寝不足になっちゃいますよね』と言って笑っていた。

これまでいつも夜の間に野分は姿を変えてきているから、夜が来るのが怖い。
しかも、この姿になってもう8日も経っていて、そろそろなんじゃないかという気がしてくる。

なのに・・・この眠さは何だろう。
体が鉛の様に重くて、瞼がどれだけ頑張っても下がってきてしまって。
抗えば、息があがってきて、胃のあたりがきゅうっと締めつけられる。

だめだ・・・もう・・・眠くて・・・。

俺はやっとの思いで野分に毛布をかけてやると、その隣に倒れ込むように横になった。すぐに意識は闇に塗りつぶされ、その後の記憶はない。




目を覚ますと、そこは眩しいほどの光の中で。俺は自分の手のひらすら見えない白さの中、必死で傍に寝ているはずの野分の姿を探していた。
視覚には全く頼れない状態だったから、恐る恐る手探りで、ベッド周辺を探る。

「野分?野分・・・どこだ・・・野分・・・!」

記憶の中では俺のベッドの横にベビーベッドがくっつけて置いてあったはずだし、ベッドの枕元にはたくさんの本が積んであったはずなのに、どんなに手を伸ばしても何ひとつ触れられない。

それより、俺はいったいどこに居るんだ?

ただただ一面真っ白な世界、手に触れられるものと言えば、自らの体だけ。
いったいどうしてこんな所に来てしまったのだろう。

野分がいない。どこにも。

不安と悲しみに胸がつぶされそうになる。息が出来ない。

「野分・・・野分・・・野分・・・どこ・・・。」

白い世界の真ん中でぽつんと一人佇んでいた俺の耳元に、突然耳をつんざく様な赤ん坊の泣き声が響いた。
野分が俺を探してぐずる時の声とは全く違う。言うなればこの世に生を受けた瞬間だとしか思えない、産まれ出ようとしている命の声。

頭の中に直接響いてくるような、その力強い声を聞き、俺はふいに理解する。

 

野分、お前は今この瞬間、必死に産まれようとしているんだな。
頑張れ・・・頑張れ・・・!
大丈夫、この世界はお前にとって優しいものであふれているのだから。

 

ここだ。野分、俺はここにいる。

今度は絶対に間違うなよ。
ちゃんと俺のもとに・・・俺の為に、生まれてこい。

 

そうすれば、お前がどんな姿であっても、俺は必ず探し当ててみせるから・・・。

次第に自分の体と白い世界との境界線が曖昧になってくる。
眩い光の中に溶けていく俺の体と野分の産声。

白い輝きに全身を覆われ、自分の体の感覚が消えるのと同時に俺は再び意識を手離した。

 

 

次に目覚めた時、かくして俺は見慣れた自分のベッドの上に居た。
まだ体の感覚が完全に戻ってなくて、ぼんやりと部屋の天井を見上げる。

変な夢・・・だったな。
あの声がいまだ鼓膜に焼き付いていて、朦朧としてくる。

「野分・・・。」

重い頭を無理やりに動かして隣を見た俺の視線の先には・・・

空っぽのベビーベッドが朝日を受けてぽつんと取り残されていた。

 


タイムリミット。
そうだ・・・覚悟はとうに出来ていたはずだ。

俺の頬を涙が一筋、伝って落ちた。

 

 

 

 



 

 

「おはようございます。ヒロさん。」

突然に寝室のドアが開けられ、リビングから射す光を背に野分が立っていて・・・・。

「朝ごはん、もう出来ていますよ。今日はヒロさんの好きな豆腐のお味噌汁です。」

 

俺は何かまた都合のいい夢でも見ているんだろうか。
だとしたら相当性質が悪い・・・現実逃避にもほどがあるぜ。

それとも何か? 野分がどんどん若返ってたっての自体が長すぎる夢だったって事か。
いや・・・それにしては細部にわたっての記憶が鮮明過ぎるだろう。

もしかして、あれかな。野分に会いたい、会いたいと思い過ぎて・・・とうとう頭がおかしくなっちまったとか。ああでもこんな幻覚が見えるんだったら、もう俺はこのままでもいいや。

 


「ヒロさん?」

ぼんやりと野分の方を見つめたまま動けない俺の方へ、一歩一歩野分が近づいてくる。
ああ何てよく出来た幻影・・・なんだろうな。

野分の幻・・・と思っていた何かが、力強い腕で俺を抱き締めた。


「ヒロさん、ただいま・・・・です。」


その腕は確かにあたたかくて、ベッドに座ったままの俺をすっぽりと包みこむ大きさで、俺の全てをその内へと閉じ込めてしまう。

悲しかったこと

不安だったこと

恐ろしかったこと

心細かったこと

 


そんな感情の何もかも、力いっぱいに抱きすくめられて、昇華されていく。


「のわき・・・・っ!!」

俺の中に溜まっていた何かが、一気に決壊したのを感じた。
抑えきれずに、喉の奥から大きな泣き声があふれ出る。止めようとしてもどうしようもなくて、俺はみっともないくらいに、まるで子供の様に声をあげて泣いた。




「ヒロさんの声、ちゃんと届きました。」

嗚咽を繰り返す俺の背中を優しく撫でながら、ゆっくりと野分が話し始める。

「・・・ここにいるって。俺はここだって言うヒロさんの声が聞こえたんです。」

頭に蘇る、あの真っ白な世界。
あれは俺の夢の話じゃなかったのか・・・・・・・・・?

「俺は一度、何もかも失くしてしまったんだと思うんです。体も記憶も。何もない、誰でもない無になってしまった俺を呼んで、この世界にもう一回引っ張り上げてくれたのはヒロさんの声でした。・・・ヒロさんの声を聞いた途端、俺の中に何もかもが甦ってきて・・・帰らなきゃ、そう思ったんです。とにかく、何が何でもヒロさんのもとに戻らなきゃいけないって思って。」

白の世界で聞いた、野分の産声。

「俺、とにかく必死で・・・あるのは、ヒロさんに会いたい、その思いだけでした。」

「・・・・俺も・・・探してた。野分がいなくなったんだと・・・思って。そうしたら、お前の泣き声が聞こえたんだ・・・すげぇ声。」

「俺はもう一回産まれたんです。ヒロさんに会いたかったから・・・。」

野分の説明は、あまり要領を得てなくて、聞けば聞くほど意味が分からなかったが、奴がちょっと前までいて、俺を探していた場所は俺が夢に見たところに酷似していた。
光に包まれて、何も見えない世界。

「気がついたら、ここに居ました。」

覚えてないんじゃないかと、ちょっと期待していた、子供に還っていた間の事も全部覚えているらしい・・・。

「俺、嬉しかったです。ヒロさんにいっぱい甘えられて。」

野分が俺の髪の毛を鋤いてくれている。抱き締められて、頭を何度も何度も撫でられて、それでも蛇口が壊れてしまった俺の涙はいつまでたっても止まらない。


一種の願懸けだったのかもしれない。
とにかく泣いたら終わりだと思っていた。泣いたら野分は帰って来ない。言霊と同じで、ちょっとでも疑ったら、悲観したら終わりだと自分の中で感じていて・・・。

「・・・・おかえり。」

「・・・・ヒロさん、好きです。俺、今までずっと・・・これ以上ないくらいヒロさんを愛してきたつもりでした。だけど、今回の事で・・・もっともっとヒロさんを好きになった気がします。」

「・・・・・・・・俺も。」

絶対に聞き取られない自信があるほど小さな声で言ったのに、野分はしっかり聞いていて、瞬く間に唇を奪われる。

久し振りの野分とのキス。

最後に味わった、重ね合うだけの幼いキスとは比べモノにならないくらい、深くて濃厚な舌先の求めに、俺は必死に応えた。
より深く求めあう為に、顔の角度を変えようと、一瞬離れた野分の口元に赤く濡れた舌がちらりと覗く。それがあまりにも色っぽくて、俺は誘われるままに、その舌に強く吸いついた。
掻き混ぜられ、舌を絡め合ううちに俺の口の中に、みるみる間にあふれてくる唾液を野分がジュッと音をたてて吸い上げる。直後、こくんと喉が鳴り、野分が俺の唾液を嚥下したと分かって、体の奥の方が切なく疼いた。

「ヒロさん・・・朝ごはん、もっと後でもいいですか。」

「・・・いい。メシより・・・。」

俺が言い終わらないうちに再度、噛みつくように激しく口づけられる。


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