『新月』 |
その後、何度も何度も・・・俺が遅刻するギリギリまで繰り返し抱かれて、もう歩くことすら鬱陶しいというのに、社会人としての辛さかな、俺は何とか気力でシャワーを浴び、意地で野分の作った味噌汁を飲み、不本意だったけどタクシーを使って、午後の授業に間に合わせた。 家を出る寸前まで、野分が冷やしてくれたおかげで、泣いた顔は案じた程酷くはならなかったけど、講義の間立ってる事が辛そうで、やっぱり抜き打ちテストにさせてもらう。 ああ、ハイハイ。鬼とでも何とでも言えばいいさ。 野分も明日から病院に戻る。 今朝、シャワーの後、津森に電話させた。
テストの採点分をファイルにしまって、こっそりと帰り支度を始めていた俺の背中に、最近はすっかり聞き慣れた、ふざけた声がかけられる。 「かーみじょー。今日ももうお帰りか?」 「・・・はい。ちょっと体調もあまり良くないですし・・・。」 「ああ、何だそんな理由か。いや、今日は出てくるのもギリギリだったし、いつものBABYちゃんも一緒じゃないからさー。てっきり彼氏が回復してきてるのかと思ってな。」 「あーーーーまあ・・・・そうですね・・・悪くなってる訳でもないし・・・そのー・・・。」 俺はこんなところで油を売ってるヒマなんか、ねーっつーの! 「いいよ。早く帰って彼氏に会いたいんだろ〜?分かってるって。」 「いや、別にそんな事は・・・!」 「じゃあ残って俺の資料集め、手伝うか?」 思わず言葉につまった俺の顔をじっと見つめた教授は「なーんて嘘ー。」と破顔して、俺の肩をばんばん叩いた。 仕事となるといつもとはガラッと変わって、尊敬すべき研究者なんだけどな・・・・どうしてこうも普段はいちいちふざけているんだか。 「あー上條、ちょっと待て。」 何が入ってるんだか分からない膨れた鞄を探ると、宮城教授は何やら小さな袋を取り出し、俺に押しつけて来た。 「これな・・・やる。お前んとこのBABYちゃんにやろうと思って用意してたんたけど・・・今日は連れてきてないみたいだったからさ。まあ、下らんモンだ。」 「・・・・ありがとう・・・ございます・・・。」 教授にあまりにも不釣り合いな、ベイビーピンクのくま柄の包装紙に思わず目が離せなくなる。
「ただいまー・・・・・うぐっ・・・。」 帰って玄関を開けた途端、目の前で待機していた野分に思いっきり抱きつかれて、その胸に顔をつぶされる。 「何すんだーテメー。」 「さっき、ベランダで干してた布団取り込んでたら、ヒロさんが帰ってくるのが見えたんです。」 あっそー・・・布団干してたんだ。 「ヒロさん、顔真っ赤ですよ。・・・ヒロさんも俺と一緒に過ごせるの、楽しみだったんですね!!」 布団の事でぐるぐるしていて、思わず反応が遅れた俺は、一人テンションの高い野分に唇を奪われ、そのまま玄関先に二人揃ってひっくり返ってしまった。
やっと俺たちの手に日常が戻ってきたのだと実感させられる。 そっと舌を絡ませ合いながら両手で野分の体のひとつひとつ触って確認していく。 ちょっと癖のある黒髪 「・・・くすぐったいです。ヒロさん。」 指先が野分の背筋を撫でたあたりで、身を捩って笑われた。 「それが嫌なら、働いて帰ってきた俺に上着くらい脱がせろよ。」 「服が脱ぎたいんだったら俺が・・・・。」 「そっちの意味じゃねぇ。」 いい意味でクールダウンされ、俺の上から避けてくれた野分の姿を改めて見ると、ちょっと前に俺が選んで買ってきたロング丈の黒いカフェエプロンがとても似合っている。 俺の視線に気がついたのだろう、野分は嬉しそうにエプロンを手ですくいながら話す。 「似合いますか?俺、体が大きいせいでエプロンとか似合わなくて・・・前から家で気軽に使えるものが欲しかったので・・・。ヒロさんが選んでくれて良かったです。」 「・・・・花屋のエプロンとかは似合ってたじゃねーか。」 最初はあのイメージで探していたのだ。シンプルで飾りっ気なくて、スマートな感じの黒いエプロン。だけど予想に反して、同じような商品は探し出せず、腰から下につける美容師みたいなエプロンしか無くて。 「今度は俺がヒロさんに選んであげたいです。」 「・・・・・遠慮する。」 何だか嫌な予感がするし! 「それより、野分・・・・腹へった。」 「あ、すみません。じゃあ晩ご飯を先にしましょう。」 晩ご飯が先って何だ。こいつ俺が言わなきゃメシより先に何する気だったんだ。 「今夜は筍ご飯と、牛肉と牛蒡の柳川風、アスパラガスとそら豆のサラダ、マダイのあらのお吸い物です。」 「久しぶりにゆっくりと料理が出来て、楽しかったです。」 いや、それはお前が昨晩いつまでも俺を離さなくて、ベッドでいつまでもぐずぐずしているうちに晩ご飯というより、夜食のような時間になってしまったせいで、ベッドでお茶漬けなんて侘びしい事になったんじゃねぇか。 脱いだジャケットを皺にならないようにハンガーにかけようと手にとった途端、ポケットがカサカサ鳴って、ようやく宮城教授からの貰い物の存在を思い出した。 「それ何ですか?」 「知らねぇ。教授が・・・多分お前にってくれたんだよ。」 「何で宮城教授が俺に物をくれるんです?」 不思議そうな顔をしながら、野分がピンク色の包装紙を開けると、そこにはパンダの顔をアレンジした、ずいぶん可愛らしいおしゃぶりと、お揃いのよだれかけが出てきた。 「・・・いいじゃねぇか、せっかくだから貰っとけ。」 「ヒロさん何ニヤニヤしてるんです・・・・。」 「だってお前が貰ったんだろ。愛用しろよ。」 「いりませんよ!こんなの!・・・それに、宇佐見さん!いい加減にしてもらって下さい!毎日毎日ぬいぐるみだの、絵本だの送って来ないで欲しいです。」 「あー秋彦にはちゃんと野分の事は伝えておくって。そういやあいつに言ってやってなかったな。結構色々世話になっちまったし・・・あいつに借りが出来るのは嫌なんだけど・・・・。」 「宇佐見さんにお礼に行くなら、俺も一緒の時にして下さい。」 「いいよ別に。お前の休みと俺の休みが合う時なんか待ってたら何ヶ月も先になるじゃねーか。」 「じゃあ電話で済ませて下さい。」 「何でそんな事、お前に言われなきゃなんねーんだ? だいたい誰のせいで世話になったと思ってるんだよ。」 「俺のせいです。だから俺がお礼に伺います。」 こうなったら野分は絶対に折れない。 でも野分のそんな子供っぽい独占欲を嬉しいと思う気持ちもあって。 「いらねーぬいぐるみや絵本は、草間園でも病院でもいいから好きに持って行ってやれ。」 「あ、それいいですね。考えてませんでした。」 ついでにろくに使わなかったベビー服や残った未開封の紙おむつ、ミルク缶なんかも貰ってくれるだろうか。10歳くらいの時の野分に着せてた服は・・・高橋にでもやるか。 今になって思い出すと不思議な日々だった。 俺は野分を失いたくない気持ちで必死だったから当時は分からなかったけど、起こった事を時系列に逆に並べ替えて考えれば、産まれたその瞬間から俺は野分の人生に立ち会わされ、昼も夜も抱いて歩いて子育ての真似事をし、体は大きくとも中身は甘えたい盛りの子供時代の野分と向き合い、健康的でまだ歯止めを知らない17歳の野分と再会を果たした。 結局、俺は・・・0からやり直したこいつの人生を共に歩んだ訳だ・・・・。 産まれてすぐに捨てられて、施設育ちの野分。 お前らがいらないなら、こいつの命も人生も俺にくれよ。 母親の手から離され、しかもわざわざ台風の日に小さな赤ん坊を置き去りにしたその場面に、行けるものなら俺が行って拾い上げたい、抱き締めてやりたいと願った。 そんな俺の下らない願望が今回の騒ぎを引き起こしたんじゃないだろうかと、ふと思ったりもする。 野分が産声をあげた、あの新月の夜・・・野分は俺の為にもう1度産まれてくれたんだろう。 「ヒロさん?」 「・・・あ、ああ悪い。考え事してた。」 ほんの短い時間、俺の目をまっすぐに見つめた後、黙って野分は俺を抱きすくめる。 何も言わなくても、分かってくれるやつがいる。 抱き締める腕の中で目を閉じながら、その腕の確かな存在感を愛しいと、心からそう思った。
そして、それからほぼ1ケ月後。 秋彦の部屋の玄関まで直通のエレベーターで降りて、目の前にあるインターフォンを押すと、中から高橋が出迎えてくれた。
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4/1〜5/20 |