今日、ヒロさんは休みなのだと3日前に会った時に聞いていたから、俺はその日の勤務を8時で終えた後、急いで帰路についた。
帰ったらヒロさんに会える・・・そう考えるだけで無意識に歩く速度が早くなる。この時間なら、もしかしたら夕食も一緒に食べられるかもしれない。万が一もう食べていたとしても、俺が食卓についてる間、黙ってコーヒーを淹れたり缶ビールを持ってきてテーブルの向いに座り、ヒロさんは俺が食べ終わるまで一緒につきあってくれるのだ。
そんな何気ない気遣いがたまらなく嬉しいのだけれど、それを口に出して喜んだり礼を言ったりなんてすると、照れ屋の彼はすぐに怒り出して「そんなつもりはない。」とか「テレビを見てただけだ。」とか何とか言って膨れてしまうから、俺は何も言わずに喜びをかみしめる。
最後の角を曲がって、マンションのベランダが見える位置まで帰って来て、部屋の窓に灯りがともっていない事に気がついた。通りに面したリビングの窓もヒロさんの部屋の窓も真っ暗で、さっきまでワクワクしていた気持ちがほんの少ししぼんでいく。
ヒロさん、もう寝ちゃったのかな。
それにしてはまだ早い時間だと思うんだけど。
鍵を取り出しドアを開けてふと視線を足元に落とす。
最近ヒロさんが気に入ってプライベートでよく履いているレザースニーカーが無い。
スーツの時に履いている皮靴はきちんと棚に収められているから、多分大学じゃない。
留守なんだろうか。
全く人の気配の感じられない室内。
「ヒロさん・・・?」
一応声をかけながら、リビング、ヒロさんの寝室、俺の部屋、と見て回るがやっぱりヒロさんは出かけてしまっているようだ。
今日、早く帰るという話はヒロさんにはしていない。
予定していても確実ではないし、急に帰れなくなってヒロさんをがっかりさせても嫌なので、余程でない限り極力言わないようにしている。
でもそのせいで、せっかく帰って来れてもそれを知らないヒロさんが残業して帰りが遅くなったり、ゼミの学生さん達と飲みに行ってしまったりして、今度は俺がガッカリする事になるんだけれど。
大学に行っているのでないのならば、連絡するくらいいいだろうか。
鞄をソファの上に放り投げて、携帯電話のヒロさんのナンバーを呼び出す。
呼び出し音を聞きながら、せっかく出かけているのに水を差すような事にならなければいいけど・・・と考える。夜だし、心配な気持ちの方が強いけど、ヒロさんに言わせれば「29歳の男が何時に帰ろうが夜歩こうが、心配される筋合いはない。怖いのはオヤジ狩りくらいのものであって、お前が心配するような目には絶対、遭う訳ないから!ありえねーから!」・・・らしいけど、本人の自覚が無いだけで、あんなに魅力的な人なのに、不埒なことを考える輩は絶対いると思う俺。
・・・8・・・9・・・10・・・
もうそろそろ留守番センターに繋がってしまうかな・・・と思っていたあたりで、通話中に切り替わった。
「ヒロさん? 俺、今帰って来たんですけど・・・今、どこですか?」
あれ・・・? 何も返事がない。
「ヒロさん・・・?」
「あーもしもし。」
携帯から聞こえてきたのは、ヒロさんの声とは明らかに違う男の声。
驚いた俺が絶句していると、その声の主は柔らかい口調で話し始めた。
「野分・・・いや草間野分君だね? 驚かせてすまなかった。」
「ああ、宇佐見さん。」
「今日、弘樹に仕事でどうしても必要な本を貸してもらおうと思って、呼びつけたんだ。で、わざわざ呼びつけて帰すのも悪いし、久し振りに積もる話もあったんで酒でも飲みながら・・・とやっていたら、まぁ毎度の事ではあるんだけどつぶれてしまってね。まだ意識はあるんだが、何しろグタグダで・・・こっちとしてはあまり遅くなる前に帰ってもらいたいんだが、この状態で一人タクシーに乗せるのもどうかと思って、君に連絡を取ろうかと思案していたところだったんだ。ちょうど良かった。」
「そうですか。うちのヒロさんがご迷惑をおかけしました。これから迎えに行きます。」
「うん。よろしく頼むよ。・・・ところで家の場所は知ってるのかな。」
「ヒロさんからだいたい聞いた事ありますし、大丈夫だと思います。俺が着くまでヒロさんをお願いします。」
「了解。・・・・おい、いい加減にしろ。お前はいつもいつも・・・・。」
電話が切れる間際、宇佐見さんの話している後ろで何だかわぁわぁ言ってるヒロさんの声が聞こえた。それを宥めるような宇佐見さんの声。
どうやら今日もかなり酔っ払ってしまってるみたいだ。
体を冷やしたらいけないからヒロさんの上着を持って、急いでマンションを飛び出した。
うちから宇佐見さん家はそんなに離れていない。引っ越す前なんてもっと近かったのだそうだ。
まあ、実家からしておむかい同士だったのだから、それを考えれば何て事はないけれど、気にならないと言ったら嘘になる。
いったいどちらが先に、ここを選んだんだろう。
そしてどちらが追っかけて決めたのか・・・。
いや、偶然って事もあるのか。ここはヒロさんの仕事場も近いし、適度に便利なわりには静かで環境もいい。
いつまでたっても宇佐見さんへのコンプレックスを捨てきれない俺に、いつもヒロさんは怒ったり呆れたりしているけれど、最近こればっかりは克服できる日は来ないんじゃないかという気すらしてきた。
それほど俺と宇佐見さんとの間には果てしない差がある。
ヒロさんをはじめとして、ヒロさんのまわりにいる人達は本当にすごく出来る人達ばかりで、どんなに俺が必死に努力をして追いかけても、顔をあげると彼らはもっともっと先を歩いていて・・・気ばかりが焦るけど・・・・。
「待ってるから。」
俺が焦って行き詰る度にヒロさんが言ってくれる言葉。
そう言ってもらうと嬉しいけど、ちょっと切ない。
俺はまたヒロさんに心配をかけてしまった。また不安な気持ちにさせてしまった。
ヒロさんは優し過ぎるから、俺が悩んでいたり落ち込んでいると必ず、自分のせいなんじゃないかと心を痛める。
俺がどんなに繰り返し「好きです」「ずっと一緒に居て下さい」と伝えていても、一度自信を失ったヒロさんは坂道をころころと転がるように落っこちて行って、挙句には俺と離れる覚悟を勝手に決めてしまったり、捨てられるかもしれないなんてとんでもない想像をして一人涙を流したりするんだ・・・。
優しくて、可愛いくて・・・とても、大切な人。
あなたを守れる男になりたい。
いつまでもコンプレックスに悩んだり、焦ったりしていないで。大事なあなたを泣かさないですむように。
高級マンションが並ぶこのあたりの中でも群を抜いて高級そうな宇佐見さんのマンションの前に辿り着いた。
彼はお金持ちの家の生まれだけど、こんなところに住めるのは彼が魂を削って書いている小説のおかげだ。しかも、売れる為の作品に固執せず、自分の書きたいものにこだわり、誰にも媚びず、生み出した作品が結果認められているんだからスゴイのだと、ヒロさんが興奮気味に言っていた事がある。
ヒロさんが彼に対してもう恋愛感情など持っていないという事は、俺だって分かっている。
だから・・・これは、今胸の中でもやもやしている感情は・・・ただの子供っぽい焼きもちだ。
「いらっしゃい。こんな時間に呼び立てて申し訳ない。」
「いえ、こちらこそ。」
玄関だけで俺が昔住んでたアパートの部屋より広そうだ。
無造作に並べられた皮靴と一緒にいくつか彼には不似合いなカラフルなスニーカーが並んでいる事に気付く。サイズからして彼のものではないだろうし、誰か一緒に暮らしている家族でもいるんだろうか。
俺が小さな靴に目を取られている事に気がついたのだろう、宇佐見さんが笑みを浮かべながら静かに言った。
「その靴なら・・・同居人のものだ。今日は兄弟の家に泊まりに行っているからたまたま留守にしているんだが。まだ大学生でね。」
「宇佐見さん、大学生の子と一緒に暮らされているんですか。」
驚いて尋ねた俺の問いに宇佐見さんはニコニコしながら銜えていた煙草に火をつけた。
先を歩く彼について、入ったリビングがまたありえない広さで。
ある程度予想はしていたつもりだったけど、ここの家のスケールは何もかも俺の想像力を越えている気がする。
部屋の中央部に置かれた大きめのソファ。
そこにうつぶせになったヒロさんは、見るからに上機嫌な様子で、たくさんのクマのぬいぐるみに埋もれるようにしてヘラヘラ笑っていた。
ローテーブルの上や床に無造作に転がされたワインやシャンパンの瓶はかなりの数で、ヒロさんは俺を見ても驚く事は無く、普段あまり見た事がないような満面の笑みでこっちに向ってひらひらと手を振っている。
宇佐見さんのところで酔いつぶれていると聞いた時からずっと沈んでいた気持ちが、楽しそうな様子のヒロさんを見て浮上してきた。俺は単純だな。
「ヒロさん、迎えに来ましたよ。」
屈みこんで顔を覗き込むと、一瞬きょとんと目を見開いた後、またニコーっと笑われる。
宇佐見さんは向かい合ったソファの反対側に座ると、楽しそうな顔で俺達を眺めていた。
「俺、こんな酔い方してるヒロさんを見るの初めてです。」
「・・・そうか。」
「家で一緒に飲んだりしますけど、どちらかというと語る・・・っていうか、いつもよりずっとおしゃべりにはなりますけど、こんなにも楽しそうじゃないって言うか・・・まぁ正体無くす程家じゃ飲んでませんね。そうなる前に寝ちゃいますし。」
ソファから上半身がずり落ちそうになっているヒロさんの体を支えながら、ゆったりと紫煙を吐き出す宇佐見さんの方に顔を向ける。
「俺は前から一度この状態の弘樹を君に見せたいと思っていてね。」
「・・・え?」
「コイツ・・・普段は全然素直じゃないだろ。」
「・・・ええ、まぁ・・・でもヒロさんが、そういう人なんだって事は承知で好きになりましたから。」
「君はこんなに隠さないのにな。」
「嘘つくの下手なんです。」
ソファの上でぐにゃぐにゃになったままのヒロさんが、胸にずっと抱いていたクマのぬいぐるみを放り投げ、ソファの下に座った俺の首にしがみついてきた。
「君とつきあうようになってから、弘樹は酔っぱらうと延々君の話ばかりしている。」
「え?」
「こっちは何日も徹夜で仕事して寝てない極限状態で、何時間もノロケにつき合わせられる身にもなってくれ。」
俺は首に酔っぱらいを1匹ぶらさげたまま、びっくりして宇佐見さんを見返した。
ノロケ・・・って? ヒロさんが? 宇佐見さんに?
「ここでダラダラと語っていないで、その話を恋人に聞かせてやればいいのにと、ずっと思っていたんだ。・・・だから、コイツの酔いが醒める前に、連れて帰ったらいい。」
「・・・・はい。そうします。」
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